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2012年11月9日金曜日

現代の大阪市中心部(北区・中央区・西区など)は昔、海だった

難波宮(なにわのみや)は、大和王朝の古代宮殿

四天王寺ワッソの会場となった難波宮跡の史跡公園は、大阪府庁や大阪城の南部に位置する。会場からは大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館などのビルが見渡せる都心エリアである。
四天王寺ワッソの会場 難波宮跡史跡公園
四天王寺ワッソ会場 難波宮跡公園
四天王寺ワッソの会場 難波宮跡史跡公園
四天王寺ワッソ会場 難波宮跡公園
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代に当地にあった古代宮殿。
飛鳥に先駆ける古墳時代に、仁徳天皇が上町台地の当地に宮殿を置いたと伝承されている。上町台地を削り、河内湖と大阪湾を結ぶ運河=堀川を掘削する大土木工事を行ったようである。
古代の難波宮周辺は、西に大阪湾、東に河内湖(潟)の間を南北に貫く岬のように突き出した上町台地の北端部分【下図参照】である。
大阪の古地理図(弥生時代中期) (c)趙哲済・松田順一郎
大阪の古地理図(弥生時代中期)
(c)趙哲済・松田順一郎
大阪の古地理図 河内湖Iの時代 (弥生〜古墳時代) (c)梶山彦太郎・市原実
大阪の古地理図 河内湖Iの時代(弥生〜古墳時代)
(c)梶山彦太郎・市原実

建造された当時、巨大古墳は葺石に覆われた石山のような景観

瀬戸内海を航海してきた中国や朝鮮の交易船は、大阪湾で堺市の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)ミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)を望み、河内湖に入ると羽曳野市の誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)などの巨大古墳を望みながら、わが国へ上陸したことであろう。

ちなみに、現在各地で見られる古墳は松などの樹々が生い茂る森のような外観をしているが、古代に建造された当時は異なる景観であったようだ。エジプトのピラミッドなどと同様に、頑丈な葺石に覆われ、円筒埴輪などが並べられた人口の石山(石塚)のような景観をしていたと推察されている。
海上を曳行する船から望むと、素晴らしい眺めだったであったろう。
葺石の景観を再現した五色塚古墳
葺石に覆われた景観を再現した五色塚古墳
葺石の景観を再現した五色塚古墳
葺石に覆われた景観を再現した五色塚古墳
難波宮付近は、海外各国との交流拠点となる国際貿易の港
難波宮付近は、当時、中国や朝鮮半島との交流の拠点となる国際貿易港であった。大規模な倉庫群跡も発掘されている。時代の先端を行く流行の発信基地だったのだ。
上町台地の西側=現代の大阪市中心部(北区・中央区・西区など)は、当時は海=大阪湾であった。京都から淀川、奈良から大和川が河内湖を経て大阪湾に注いていた。大和川はいくつかの支流に分かれていたが、たびたび氾濫したようである。大阪は、よくも悪くも水の都であった。
上町台地の東西にひろがる現代の市街地は、古代から近世へ数百年にわたって河川の土砂が堆積したり、豊臣秀吉の「大坂城」建築にかかわる埋め立てによって作られた人口の地盤である。
江戸時代の「大坂」古地図
江戸時代の「大坂」古地図

河川治水の大規模な土木工事としては、淀川の文禄堤と大和川付け替えが代表的なものである。文禄堤は、安土桃山時代に豊臣秀吉が築造。江戸時代には、中甚兵衛を代表にした庄屋たちの尽力により大和川の付け替えが実施された。大和川は、柏原市の石川との合流地点から旧来は北へ流れていた。これを新たに西へまっすぐ、堺市を経由して大阪湾に注ぐ経路に付け替えたのである。
豊臣秀吉の文禄堤と江戸時代の大和川付け替え
豊臣秀吉の文禄堤と江戸時代の大和川付け替え

大阪平野の変遷に関する詳細は、例えば下記のサイト参照。
■大阪湾環境データベース
■大阪平野の地形と特色
■淀川の成り立ちと人とのかかわり