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2014年10月20日月曜日

和泉だんじり祭、急な坂道を上る聖神社への宮入りと神輿渡御

和泉市の信太・幸地区、信太連合のだんじり祭は、聖神社への宮入りと神輿渡御が見どころである。今年はじめて見学にでかけた。

熊野街道に近い山裾の住宅街にある一の鳥居から山上の神社へ、標高差約50m・約400mの急な長い坂道を上ってだんじりが宮入りする。
曳き手にとってはひどく疲れを感じる、関西の方言でいうとかなりシンドイ宮入りである。
各地のだんじり祭の中でも、もっとも過酷で厳しい宮入りかも知れない。
曳き手たちはだんじりを曳いて、急な坂道を掛声とともに上がって行く。だんじりは4トン近い重さ。厳しく辛い曳行である。
神社へ上がる坂道の途中では、白い上下の衣装に身を包んだひとびとが数十人出迎え。曳き手たちを拍手で迎え、激励する。
身体的に過酷でハードな分、坂道を上り切って山上神社の二の鳥居が見えてくるときの喜びも大きいはずだ。
聖神社へ宮入りするだんじり
山上の神社へ向かって、長い急な坂道を上って宮入りするだんじり

もうひとつの特長は、神輿渡御である。
当番町のひとびとが聖神社から神輿を担ぎ出し、禅宗のお寺・蔭涼寺へ参詣した後、御旅所を経て氏子の町内へ神輿渡御を行う。
坂の途中でだんじりを迎えたひとびとは、神輿を担ぐ当番町・上代町のひとたちである。
聖神社の境内、宮入りしただんじりの前を神輿が渡御する

信太連合のだんじりは、上町・上代町・尾井町・王子町・葛の葉町・幸町・太町・富秋町・宮本町の9町。神輿を担ぐ今年の当番町は、上代町である。
神輿当番町を除く8町のだんじりが見守る中を、白い上下衣装のひとびとが神輿を担ぎ境内を練り歩いた後、宮出する。だんじりと神輿が神社境内でいっしょに並ぶ渡御の光景は、他地区のだんじり祭ではあまり見かけない光景である。
各町のだんじりは宮出の後、鶴山台団地の中でやり回し。坂を下ってふもとの各町へ帰り、午後はだんじり曳行を休止する。
宮入りが行われる本宮の日は、氏子の町々を神輿が渡御するからである。
このため、和泉市、信太連合のだんじり祭は、宵宮・本宮・後宮の3日間にわたって行われる。
聖神社は和泉五社のひとつ。創建は白鳳3年(675年)、あるいはもっと古く神武天皇東征の際とされるほどで、かなり古い由緒のあるお宮さんである。
豊臣秀頼が造営したとされる本殿は、建て替えられて真新しくなっている。

2013年7月21日日曜日

祗園祭の山鉾巡行と神輿渡御神幸祭、静と動のふたつの祭

7月17日、祗園祭を見るために早起きして京都へでかけた。初めて見学した一昨年は日曜日だったので、満員電車のような人、人、人。文字通り、足の踏み場もないほどの大混雑であった。昨年と今年は平日のため、一昨年ほどではないが圧倒的な人出であるのに変わりはない。


稚児さんが長刀鉾に乗り、四条烏丸から出発する光景から撮影開始。しめ縄切り、交差点で山鉾を方向転換させる辻回し、新町御池で稚児さんが鉾から降りる場面などを撮影。神の使いとされる稚児さんは、社参の儀以降は地面に足をふれないなど、さまざまな決まり事を守りながら祭事に臨む大役である。鉾に乗込む場面や、しめ縄切りで太刀が綱を見事に断ち切った瞬間、鉾から降りるシーンでは観衆からどよめきと拍手喝采が起きる。


正午過ぎに山鉾巡行が終わったので、神輿渡御の神幸祭が行われる八坂神社へ向かう。
神幸祭は、八坂神社から市内中心部・四条寺町にある御旅所へ神輿が曳行する祭事である。24日には、神輿が御旅所から神社へ還る還幸祭が行われる。神輿は中御座、東御座、西御座の3基あり、東御座では子供神輿も同時に曳行される。
神幸祭の神事は4時頃、綾戸國中神社の久世駒形稚児が騎馬にまたがり南楼門から入ってきて始まった。
綾戸國中神社HPによれば、祗園祭は当社と八坂神社の祭礼である。
ふたつの神社の祭神はいずれも素盞嗚尊=スサノオノミコト。ご神体であるミコトの愛馬の駒形を胸に飾った稚児は神の化身とみなされるので、騎馬にまたがり神社の境内へ入ることができる。
「駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ」と記されている。
山鉾巡行と同様に、神輿渡御でも稚児さんが重要な役割を果たしている。
■綾戸國中神社のHP
古代史の騎馬民族説などが想起されて、興味ぶかい。綾戸國中神社は京都市南区にある神社である。
祗園祭 神輿渡御 神幸祭 駒形稚児
駒形稚児
祗園祭 神輿渡御 神幸祭 中御座神輿
中御座神輿
駒形稚児の騎馬に先導されて中御座(祭神・スサノオノミコト)の神輿が南楼門を出てくる。
神の装束や神宝、駒形稚児、神官などの行列につづいて、中御座、子供神輿、東御座、西御座の神輿が西楼門へ向かう坂道を練り歩く。西楼門の石段下では神職さんによるお祓い。三基の神輿が高々と上に差し上げられ、四条寺町の御旅所へ練り歩く。夕暮れから夜へ向かう時間帯、楼門の赤い柱と黄金色の神輿の彩りが色鮮やかである。
午前中の優美な山鉾巡行とは対照的に、祭らしい熱気と躍動感にあふれた神輿渡御。御旅所へ向かう西御座神輿の後ろに続いて、四条京阪の駅へ向かう帰路についた。

最後に、祗園祭に関する素朴な疑問にもふれておきたい。祭事のメインのはずの神輿渡御より、山鉾巡行の方が圧倒的に知名度が高いのは何故だろうか。
大きな理由のひとつは、高さ約25m重さ10トン近い巨大な鉾や趣向をこらした山が、30数基も連なって巡行するビジュアルインパクトの強さ。動く美術館と評される山鉾が巡行する雅やかな光景は、ひときわ印象的である。長刀や三日月など鉾の頂上にある鉾頭も、シンボリックで美しい。
歴史的な背景も考えておきたい。山鉾巡行は、当初からあった神輿渡御を中心とする祗園会の神事に追加して、室町時代に新たに興された行事であった。祭事に付加するかたちで、京の町衆が立ち上げ、数百年に渡って継承してきた祭事である。
自由で独立心旺盛な町衆にとって、寺社仏閣とは自立した「我らの祭事」と意識されていたはずである。それはたとえば、天文二年(1533)延暦寺によって祗園会の神輿渡御(神幸祭)が中止になったとき、「神事これなくとも山鉾渡したし」と下京六十六町の町衆たちが、山鉾の巡行だけは行いたい、と訴え出たことからも推察できる。
鎌倉末期から室町前期、祗園会は神輿の渡御がたびたび中止や延期になったようである。神輿の渡御が行われていない場合=すなわち神事がない場合でも、山鉾の巡行のみが行われた場合がかなりあるようだ。
■歴史学者:五島邦治さんのHP→ 祇園会「山鉾風流」の成立 参照