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2012年12月17日月曜日

泉州の奇祭とよばれる祭礼、石津太神社の火渡り神事「やっさいほっさい」

今年最後のお祭り、石津太(いわつた)神社の火渡り神事「やっさいほっさい」を見学してきた。

太古の昔、戎(えびす)さんが浜に漂着した時に、漁師たちが篝火を焚いて迎えた故事に因む火祭である。
江戸時代から、毎年、12月14日に行われてきたと伝承される。戎(えびす)さんは、七福神のひとつ。七福神の絵図では、釣竿を持ち鯛を釣り上げた姿で描かれることが多い。 
石津太神社の創建は、おそろしく古い。社伝によれば、紀元「前」469年と伝承されている。『古事記』『日本書紀』に伝えられる第5代天皇、孝昭天皇の時代である。神社の石柱には、我が国最古のえびす神社と記されている。 
参道の広場には、2〜3mの高さに祈願用の薪が格子状に積み重ねられている。夜、8時。照明が消えて真っ暗になり、神火が薪に点火される。
上半身は裸、白いサラシの胴巻きとパッチのいでたちの男たちが、「やっさいほっさい」という掛声をかけながら点火された薪の周辺を回る。
かなり勢いよく火が燃え上がり、火の粉がはじけて飛んでくる。祭事の進行状況を説明する女性アナウンサーが「今年はとくに、勢いよく火が燃え上がるようです。危険ですからご注意ください」と警告するほどである。
格子状の薪が、燃え上がり徐々に崩れてくると、竹で平坦にならす火伏神事が行われる。火渡りの下準備である。
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
勢いよく燃え上がる祈願用の薪
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
火伏せ神事
点火から約1時間たった、9時。いよいよ、火渡り神事が始まる。
戎(えびす)神に仮装した神人を、3人の若者が担いで本殿から参道の広場へやってくる。両足を前ひとりがかつぎ、後ろふたりが背中と両腕を支える。
東の鳥居側から、西の本殿へ向かって熾き火の上を一気に駆け抜ける。
熾き火を駆け抜けた直後に、足を担いだ前のひとりが転んでしまうハプニングがあったが、大事にはいたらなかったようでひと安心。
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
えびす神に扮した神人を担いで火渡り
火渡りの途中で転倒
本殿からもう一度広場へ戻ってきて、西から東へ熾き火を渡る。さらに引き返して東から西へ火渡りを行い、引き続いて神社のまわりを「やっさいほっさい」と掛声をかけながら周回する神事に向かう。 
戎(えびす)神たちの火渡り神事が終わったあとは、一般の参拝客も火渡り神事に参加できる。熾き火の上を、次々とひとびとが駆け抜ける。
若者だけではなく、幼児を肩車してかついだ父親や、若い女性、小学生の子供たちも喜々として火渡りを行っている。
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
熾き火の上を火渡りする一般の参拝者
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
熾き火の上を火渡りする少年
まだ火のついた熾き火の上を駆け抜けるのは怖いと思うけれど、平気なようである。わざわざ足摺して、熾き火から炎を燃え上がらせている元気なひとたちもいる。 泉州の奇祭というモノ珍しさか、外人さんたちも見学に来ているあたりが面白い。 
■Wikipedia石津太神社 
火渡り神事「やっさいほっさい」が行われる石津太神社は、大阪府堺市の南部。石津川が大阪湾へそそぐ河口に近いエリア。
この地域は、大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)や上石津ミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)など巨大古墳が集中する百舌鳥古墳群の南西部に位置する。
古代には石津川上流に須恵器産地があり、河口は瀬戸内海から大阪湾を経て古墳築造用の石が運ばれた港であった。紀元前数百年に創設された、我が国最古のえびす神社であるとしても不思議ではない土地柄である。 
境内には戎(えびす)神が腰掛したとされる石も鎮座している。現在は、小規模な神社であるが、最盛期はかなり大規模な社領を有していたらしい。朝廷や豊臣秀吉などの崇敬の厚い神社であったようである。 
■Wikipediaえびす 

2012年12月8日土曜日

デジカメで撮影した写真をフチなしプリントすると、元データと異なる:その理由

交換レンズのトラブルを解消していただいたDPEのお店に感謝

近所の写真プリントDPEのお店に、感謝しなければならない。愛用しているカメラの交換レンズEF-S18-135mmのトラブル=保護用のレンズが交換レンズの本体に食い込んでしまって外れなくなっていたのを、取り外してもらった。
購入した家電量販店にもちこめば、まずはメーカーに修理依頼となるのが相場。ダメもとで依頼してみようと思い、近所のカメラ屋さん=DPEショップを訪ねた。幸いにも、快く引き受け直していただいたのである。
しかも、修理の手数料を聞いたところ、「いらない」との返答。 
修理代金ナシでは申し訳ないと思い、とりあえず近くの和菓子屋さんで気持ばかりの菓子折りを買ってお礼。後日、あらためて、撮影した写真のプリントを依頼することにした。 
アナログカメラの時代には、撮影した子供の写真などをよくプリントしていたが、デジタルカメラを持つようになってからはプリントすることが全然なくなった。何十年ぶりかのプリント依頼である。

プリントした写真と、元データを見比べて気づいたこと 

ハガキの2倍サイズの2K版(152×205mm)への引き延ばしプリントを、10枚ほどオーダーした。
フチなしでプリントされた写真を自宅に持ち帰り見てみると、違和感がある。何かオカシイ感じなのだ。 
写真元データとプリントを見比べてみて、原因が分かった。プリントした写真は、元のデータと比較して左右がカットされている。
写真の元データ 縦横比率2:3
写真の元データ 縦横比率2:3
プリント写真 縦横比率3:4
プリント写真 縦横比率3:4

フチなしでプリントされている印画紙の縦横比率は、約3:4。プリントの元になるEOS Kiss X4の写真データの縦横比率は、2:3である。縦(天地)を優先してフチなしプリントすると、横(左右)がカットされることになる。 

よく使われる写真用紙 L版は縦横3:4、一眼レフ画像は縦横2:3
プリントすると横(左右)がカットされる

私の持っているデジカメIXY DIGITAL 900ISなど、コンパクトカメラの場合は一般的に縦横比率は3:4。 
同じく、一眼レフデジカメの場合は、縦横比率はアナログ35mm一眼レフカメラに準じる2:3。これに対して、写真プリント用に用いられる主な用紙サイズと縦横比率は下記のとおり。
◎L版(89×127mm)                   →約3:4 
◎2L版(127×178mm)    →約3:4 
◎2K版(152×205mm)    →約3:4 
◎六切版(203×254mm)    →約4:5 
◎ワイド六切版(203×305mm) →約2:3 
◎四切版(254×305mm)         →約5:6 
◎ワイド四切版(254×366mm) →約5:7 
用紙サイズの縦横比率をみると分かることがある。撮影した画像データサイズと、縦横比率が異なるのだ。
プリント用紙は、一眼レフ画像データ(2:3)に比較して横が短い。 
このため、35mm一眼レフデジタルカメラで撮影したデータを、DPEショップに依頼してフチなし写真プリントする場合は要注意。
左右が大幅にカットされることを覚悟しなければならない。 
唯一例外は、用紙をワイド六切版にする場合。ワイド六切版であれば、用紙とデータとの比率が2:3でほぼ同じ。プリントする際にカットされるトリミング部分が、必要最低限に納められる。 
データを優先したい大版プリントの場合は、天地の余白フチありで依頼するか、あるいは用紙サイズに応じた縦横比率にあらかじめトリミングしたデータを用意しておく必要がある。

コンパクトデジカメ画像は縦横3:4(1.33)だが、用紙Lはやや横長の約3:4(1.42)
プリントすると縦(天地)がカットされる

コンパクトデジタルカメラのプリントの場合でも、要注意である。コンパクトカメラの写真画像データ横÷縦数値は1.33。これに対して印画紙の横÷縦数値は、L版=1.42、2L版1.40。約4:3の比率とはいえ、データに比較して横が長い。フチなしプリントの場合、画像データの長い横(左右)を優先して縦(天地)がカットされてしまう。
L版・2L版でプリントする場合、一眼レフは横(左右)、コンパクトカメラは縦(天地)がカットされてしまうということになる。
そういえば、アナログの時代でも、フィルムとプリントでは縦横比率が異なるという注意事項があったことを思い出した。 
写真の画像元データ縦横比率とプリント用紙の縦横比率が異なる、というのはプロの常識ではあろう。しかし、私たち素人は知らない方が圧倒的多数のはずである。 
35mmのロールフィルムが普及する以前は、中判・大判カメラで撮影した1枚1枚のフィルムを現像して手焼きしていた。空白や余分な部分はカットして、フチなし写真にしていたのであろう。 撮影した画像データとプリント用紙縦横比率の違いは、印画紙が大量のプリントを想定していないアナログカメラ時代の遺産であろうか。

追記)はがき用紙やエプソン推奨のKGサイズは、一眼レフ同様の縦横比率2:3
プリントしても上手く納まる

よく使われる印刷用紙の中で、はがき用紙が上記の表でもれてしまった。
はがき用紙であれば、一眼レフと同様に縦横比率がほぼ2:3であり、カットされる部分が必要最低限に止まる。元のデータとほぼ同じ画像がプリントされる。
用紙サイズ一覧.comによれば、エプソンが推奨しているKGサイズも縦横比率が約2:3。一眼レフで撮影した写真のプリントに好適である。KG版は元々コダックが採用したサイズで、欧米では標準的なプリント用紙のようだ。はがきとほぼ同じで、縦横が数ミリ程度大きいサイズである。
◎KG版(102×152mm)    →約2:3
◎はがき(100×148mm)    →約2:3
■用紙サイズ一覧.com
http://www.size-info.com/photo-paper/

2012年12月2日日曜日

京都の紅葉名所を再訪:東福寺、嵯峨野竹林の道・常寂光寺、嵐山

今年の紅葉も、そろそろ見納めの季節である。 
テレビの紅葉特集で東福寺と嵯峨野・竹林の道を紹介しているのを見た家のカミさんが、行ってみたいという。
11月29日、ふたりで京都の紅葉名所を再訪問した。

朝早く家をでようとしたところ、思わぬトラブル。最近、動画モードの撮影にもトライアルしているカメラEOS Kiss X4に問題発生。レンズカバーが、斜めに食い込んでいて外れなくなっている。 
あわてて弄っていると、レンズカバーは何とか外れた。しかし、カバーをはずすためにねじってしまったのか。防護レンズが割れてしまい、外れなくなってしまった。電車の時間に間に合わないので、替えの交換レンズを装着して出かけることにした。 
問題発生のレンズはEF-S18-135mm。35mm判換算で29mmから216mm相当のズームレンズ。広角・標準・望遠の3機能を備えた便利なレンズなので愛用している。やむ終えず装着してでかけたのは望遠系のズームレンズEF-S55-250mm。35mm判換算で88mmから400mm相当である。手ぶれが心配であるが、望遠系のズームレンズでどんな絵がとれるか試してみることにした。 

1)東福寺:臥雲橋から望む通天橋、通天橋から望む渓谷・洗玉澗の見事な紅葉 

まず最初は、京都の紅葉名所の代表的な存在=東福寺。JR京都駅からひと駅という便利な立地もあり、前回訪れたときと同様に大変な混雑ぶりである。北門から入り、参道の橋廊・臥雲橋に向かう。臥雲橋からは、左手目の前に樹々の紅葉が広がり、奥に屋根付き橋廊・通天橋を望むことができる。
東福寺 通天橋
通天橋
東福寺 臥雲橋
臥雲橋
 東福寺の境内には渓谷が東西に流れており、渓谷・洗玉澗のまわりが庭園になっている。渓谷に架けられた回廊の一部が屋根付きの橋廊・臥雲橋と臥雲橋である。庭園の回廊から望む紅葉は見事であったが、すでに盛りをすぎた感があるのが残念だった。 
■東福寺 

2)嵯峨野・嵐山:竹林の道を走る人力車、踏切ではトロッコ列車に遭遇 

昨年、趣ゆたかな竹林の散策道にたまたま遭遇したのは、常寂光寺から天龍寺へ向かう帰り道であった。
カミさんが見てみたいという第一希望も竹林の道である。地図を事前に調べたところ、JR嵯峨嵐山駅の南口から向かう方が便利なようである。 
JR嵯峨嵐山駅の南口は天龍寺や嵐山渡月橋へのアクセス経路になっているので、道路沿いには土産物屋や飲食店がたくさん並んでいる。
昨年利用した北口から常寂光寺へ向かう経路は閑静な住宅街を通る印象が強いが、南口からの経路は観光地らしいにぎやかな雰囲気である。JR駅南口には、嵯峨野観光鉄道のトロッコ嵯峨駅も隣接している。 
ひとりで撮影旅行の際はおにぎりを頬張ることが多いが、カミさんとふたり連れなので昼食は少し贅沢。
行列ができている「嵯峨豆腐・稲」という店で、生湯葉付き湯豆腐定食を食べることにした。少し待たされたけれど、まずはごちそうさま。 
食事を終えて、鶴屋寿という喫茶店北角から西へ入り竹林の散策道へ向かう。 
後ろから、数台の人力車が追い抜いて行く。
嵯峨野 竹林の道を走る人力車
竹林の道を走る人力車
嵯峨野 竹林の道 踏切を走るトロッコ列車
トロッコ列車
縁結びの効験あらたかな野宮神社の前を少し北へ進むと踏切。1時間に1本程度しか走らないトロッコ列車が通る光景を、運良く目にすることができた。
トロッコ列車は、旧山陰線の旧線を使って嵯峨野観光鉄道が走らせている観光用のディーゼル車である。赤、黒、オレンジに彩られた車体が目を引く。 
■嵯峨野観光鉄道 
竹林の道の散策を楽しむのであれば、野宮神社手前の三叉路を北ではなく、西へ向かう方がおすすめ。天龍寺の北門から大河内山荘へ向かう小径の方が、風情豊かな竹林の光景を楽しむことができる。 

3)常寂光寺:仁王門から本堂へ続く参道まわりの鮮やかな紅葉 

竹林の道から常寂光寺へ向かう。常寂光寺は、安土桃山時代、1595年に日真上人(「真」の文字は「示す編に真」)が開設したお寺である。平安末期〜鎌倉初期の歌人・藤原定家の小倉山荘跡と伝承される。
日真上人は、角倉了以をはじめ京都町衆の帰依者が多かった日蓮宗の高僧。歌人としても知られていた風流人だったようで、ひなびた佇まいの好感がもてるお寺である。東福寺ほどではないが、こちらも多くの参拝客でにぎわっている。
常寂光寺 仁王門
仁王門
常寂光寺 仁王門わきの参道
仁王門脇の参道
仁王門から本堂へ続く石段や、鐘楼の方へ上がる参道まわりの紅葉が見事である。樹々の根元に生える苔の緑と、紅葉や黄葉の対比が色鮮やか。
見頃としては、盛りを少し過ぎた感じだったのが残念である。 
ちなみに、常寂光寺のHP(下記アドレス)はFLASHを使ったかなり高度なつくりである。アクセスしてみてほしい。 
■常寂光寺 
帰りは、大河内山荘の方から亀山地区の嵐山公園へ下り、桂川沿いに渡月橋へ向かう。嵐山の紅葉も見学できたが、ふたりとも歩き疲れて少々ばてぎみ。 
何十年ぶりかに訪れた嵐山であるが、20〜30歳代の若い頃に来た嵐山は、もっとひなびた印象であった。土産物屋や飲食店の外観も、昔は和風の少々くたびれた感じが多かった。現在は、当世風のモダンな意匠の建物が目白押しという印象である。 渡月橋から北へ、JR駅方面へ続く道沿いのにぎわいはさすが京都という感じである。

2012年11月28日水曜日

11月25日、大阪マラソン2012を観戦

11月25日に開催された、大阪マラソンを見学にでかけた。
約3万人の市民ランナーが参加する大型イベントである。主催者によれば、フルマラソン参加者28,343人のうち27,112人が完走。完走率は95.7%。これは、かなり素晴らしい数字だと思う。

スタート地点、大阪府庁前は招待客のみ観戦可。一般客は立ち入り禁止のため、府庁の南交差点で撮影スタンバイした。フルマラソンは9時スタート。
8時45分、車椅子の部が一般のフルマラソンに先駆けてスタートした。目の前を、かなりの猛スピードで駆け抜ける。車椅子の部、1位の山本浩之選手のタイムは1時間28分16秒。フルマラソン1位、セルオド・バトオチル選手の記録2時間11分54秒より約40分も早い。腕2本で車椅子の車輪を回転させることを考えると、ハードな競技である。
撮影にいいポジションを確保したはずであったが、そう都合良くはいかない。前にひとが割り込んだり、歩道で見ている観客が突然肩車をしてひとをかつぎあげたり。アングルを急遽変更しなければならないことが、しばしば。自分もまた、無意識のうちに他人の撮影を邪魔したりしているかも知れないのでお互い様か。
市内中心部、御堂筋へ移動して撮影しようとしたが、コース道路の大阪城側にいたため苦労した。約3万人ものランナーが走行するため、道路の横断はできない。道路をまたぐ陸橋型の横断歩道橋は閉鎖。あるだろうと思っていた地下道もない。結局、森之宮まで歩く。
大阪マラソン
大阪マラソン(御堂筋)
大阪マラソン
大阪マラソン(森之宮)

森之宮から本町へ移動して、御堂筋の走行風景を撮影。10時過ぎに、地下鉄本町駅から電車でゴール地点の南港インテックス大阪へ向かう。
残念ながら、車椅子の部1位選手のゴールシーンには間に合わなかったけれど、上位選手が次々とゴールインする姿は見応えがあった。女子1位の土田和歌子選手と思われる姿も確認できた。男子選手と競り合って、リードを保って駆け抜けていった。
大阪マラソン 車椅子マラソン
車椅子マラソン(南港)右:土田選手
大阪マラソン 車椅子マラソン
車椅子マラソン(南港)
車椅子マラソンの選手たちが、次々とゴールする中を、マラソン1位の選手が駆け込んでくる。モンゴルのセルオド・バトオチル選手。40km以上の距離を走ってきたとは思えないほどの猛スピードで、あっという間にゴールへ向かう。
2位中村泰之選手は、あごが上がって少し苦しそうに駆け抜ける。3位佐藤敦之選手は、比較的軽快にゴール前でサングラスをはずしながら走り抜けた。
大阪マラソン
大阪マラソン(シモン選手)
大阪マラソン
大阪マラソン(ゴール)
女子の1位はルーマニアのリディア・シモン選手。シモン選手は、昨年も1位だった。大阪府庁の南側道路で、スタート前のウォーミングアップしている姿を見かけた。外国人にしては、小柄な選手である。1973年生まれなので39才ではあるが、走行する姿は若々しい。2位ジュリア・モンビ選手。3位に日本人の猪野祐貴選手が入って来る。色の白い大柄な選手である。大きなストライドで、元気よく疾走する姿が清々しい。
■大阪マラソン2012


2012年11月20日火曜日

奈良の紅葉名所を歩く:談山神社

数年前、長谷寺の紅葉見物をしたときに、次は訪ねてみたいと思っていたのが談山神社。 奈良県、桜井市。大化の改新で活躍した藤原鎌足ゆかりの神社である。ちなみに、拝観窓口で渡されたリーフレットによれば、談山の読みは「たんざん」であった。「だんざん」とばかり思っていたが、勘違いである。中旬から下旬に見学に行こうと考えていたが、神社のホームページを見ると11月17日が例大祭。舞楽が奉納されると記載されている。天気予報は雨であったが、雨の紅葉も一興と考えて参拝にでかけることにした。

11月17日、年に一度の談山神社例大祭・奉納舞楽を拝観 

目当てのひとつ、例大祭の開始は10時半からとなっていたが、電車の乗り継ぎに手違いもあって到着したのは10時45分頃。 本堂で例大祭が始まったところと聞いて、急いで本堂へ向かう。幸い、舞楽は11時半頃から奉納されたので、拝殿の廊下から拝観できた。
談山神社 舞楽
雨よけのテントが張られた舞楽の舞台
談山神社 舞楽
例大祭で奉納された舞楽
あいにくの雨模様のため、舞楽の石舞台にはテントが張られており、拝殿からは本殿がほとんど見渡せない。本殿の建物を背景に舞楽が奉納されている絵がとれるはずであるが、テントが目隠しになる。写真撮影の環境としては、あまりよくない。 拝殿の座敷には、藤原一族の人々や信者が大勢座っている。
大化の改新当時の鎌足公を、再現しているのだろうか。赤い衣装を身につけた演者は、剣を持って舞う。座敷前列の人々もビデオや写真を撮影しているが、絵柄の構図としてはあまりよくないのが残念。 
正午頃に例大祭がお開きになった後は、紅葉見物。一時小雨がちらついたけれど、幸い曇り空。境内の見事な紅葉を、ゆっくりと見物できた。 

手前左右に紅葉、左奥にそびえるイチョウ大木を背にした十三重塔の優美な姿 

中でも、十三重塔周辺の紅葉が見応え十分。本殿から見ると、十三重塔の左右手前に紅葉、左奥権殿の背後にそびえるイチョウの大木の黄葉があざやか。
塔の檜皮(ひわだ)葺きの黒っぽい渋い茶、塗り壁の白、柱や軒下の垂木などの赤に、樹々の葉の緑・赤・黄が点描のような濃淡を示しながら彩りを添える。風にふかれて揺れる、樹々の葉が優美である。
十三重塔
左・十三重塔、奥・権殿
談山神社は、飛鳥時代に建立された古い神社である。
十三重塔は、678年に鎌足公追悼のために息子が建立したもののようだ。701年に、鎌足公を祀る神社本殿が建設されている。明治の神仏分離令の以前は、神仏融合の寺院兼神社であった。
十三重塔の西には、権殿(儀式殿)。建物西のイチョウ大木の下には、奥の山から流れる疎水があり小さな滝になっている。
権殿の階段を下りると、けまりの庭。庭に面して、神廟拝所と総社拝殿が配置されている。
談山神社 福禄寿
総社拝殿・福禄寿
権殿前の小さな滝
総社拝殿に祀られている大きな木像、高さ3m位の福禄寿が面白い。福禄寿は弁天さん、大黒さん、恵比寿さんなどと並ぶ七福神のひとつ。
ノミで削り出された木像であるが、独特の風貌が味わい深い。円空の仏と同じように、荒削りな感じが好ましい。開運出世、福の神にふさわしい親しみ深い表情である。
七福神は、ヒンドゥー教・仏教・道教と日本の土着信仰がいりまじって形成されたようであり、和を持って尊しとなす日本らしい神仏習合の神さんらしい。
境内の西端まで紅葉を見物して、再び十三重塔の方へ引き返し本殿の前に帰った2時過ぎ、とうとう雨が降ってきた。拝殿床下の回廊部分で、雨宿り。小雨がやがて、かなりきつい本降りの雨に。帰り支度をして、山門から本殿へ続く長い急坂になった石の参道階段を降りる。急な下がり上がりになった山道をたどって、バス停へ。雨天の予報にも関わらず、例大祭の奉納舞楽と、紅葉見物を楽しむことができて幸い。十三重塔まわりの光景が記憶に残る、いい一日であった。
■談山神社

<追記> 帰宅後、ネットで調べてみた。総社拝殿の木像・福禄寿は、大阪芸術大学教授・斎部哲夫さんの作品のようである。比較的最近に作られた木像のようなので驚いた。ほのぼのとした福相、好感がもてる作品である。

2012年11月18日日曜日

大阪の紅葉名所を歩く:延命寺

延命寺は、河内長野市の山岳寺院である。平安時代に、空海が当寺を開いたと伝承される。
知名度はあまり高くないが、実際に訪れてみて、紅葉の美しさに驚いた。

訪問するきっかけは、観心寺の紅葉見物の際に、南海電車・河内長野駅で手にした観光ガイド。南海ハイキングMAP「観心寺・延命寺コース」と題したリーフレットである。
「樹齢1000年と伝えられるカエデの巨木は必見、云々」というような記事が掲載されていた。写真をみてもキレイなお寺のようである。案内マップの記載によれば、観心寺から約1.5km、徒歩25分程度とある。
観心寺の紅葉見物をおえて、地図を片手に延命寺を訪ねることにした。
山門の東山手にある赤い橋をわたり、標識にしたがって坂道を上る。道路の左右に杉木立が生い茂る林道を通る。坂道からは山中の緑に包まれた観心寺のお堂を遠望できる。上り下がりのきつい林道を歩いて約30分。途中、観心寺へ向かう途中と思われるシニア層のハイカーたちとすれちがう。
延命寺の山門近くにさしかかると、地元農家の人が自宅前で焼き芋を販売している。柿や干し柿、カブラなども産直販売。遅い昼食をかねて、焼き芋を1個購入。ホカホカの焼き芋をほおばりながら延命寺へ向かう。途中にも、2〜3件、農家のひとが自宅前で柿や野菜を販売している。
延命寺(河内長野市)
延命寺 山門
延命寺(河内長野市)
延命寺 山門
山門前の木立は、見事な紅葉である。観心寺と比較すると、規模は小さなお寺ではある。が、紅葉のあざやかさでは甲乙つけがたい。境内が小さいぶんだけ、見どころの密度が濃い感じである。参拝は無料。
山門まわりの紅葉に見とれているうちに、雨がふってきた。30分くらい山門の屋根の下で休憩していると、雨が上がった。
雨に打たれる紅葉も、なかなか風情がある。
観心寺と同様、動画ムービーもCANONカメラEOS Kiss X4の動画モードで撮影した。山門近くの南天を手前にして、奥に紅葉を望むシーンなどは一眼レフならではのボケ味を生かせる印象である。
延命寺(河内長野市)
古木・夕照もみじ
延命寺(河内長野市)
古木・夕照もみじ
宝物館への階段をあがると、右手に「夕照楓(もみじ)」。桜の古木などと同じように、太い幹は地面から立ち上がる根元部分がひび割れ。痛々しい感じであるが、枝先の紅葉は若い楓にひけをとらない元気さである。高台にある敷地から、下の境内へ向かって横へ伸びるように生い茂っている。
さらに山手へ上ると、蓮池。池のほとりにはイチョウの大木がある。イチョウの黄色い落ち葉が、下の紅い葉の上にのっかている。彩りが面白い。さらに上へのぼると古い時代の高層たちの墓。山の小径には、あちこちに地蔵さんもある。さらに高台には紅葉山もあるようだが、ギブアップして帰途につく。
紅葉は見事であるが、交通の不便なのが難点。ガイドMAPによれば、三日市町駅または千早口駅へ徒歩40分以上かかる。美加の台という戸建て住宅地がお寺の近くにあり、そこにバス停がある。千早口駅方面への道の途中にあるバス停めざして歩くことにした。途中、道の細い山道に入る。大丈夫かな、と不安になりながらたどり着いたバス停。残念ながら本数が少なく、1時間以上待ち時間がある。結局、戸建て住宅地の入り口にある美加の台駅まで歩く。
携帯電話の万歩計によれば、1万5000歩以上歩いた計算になる。観心寺、延命寺の紅葉は楽しめたが、お疲れさまの一日であった。
■延命寺(河内長野市)ウィキペディア

2012年11月17日土曜日

大阪の紅葉名所を歩く:観心寺

大阪の紅葉名所見物、2カ所目は観心寺。ミーハーのようで恥ずかしいが、朝日新聞夕刊の見頃情報による選択である。
境内はかなり広く、大規模なお寺である。南北朝時代に後醍醐天皇が楠木正成に命じて建立した金堂は、国宝に指定されている。
山門を入って金堂へ上がる参道は、長い石段。石段の左右には、色あざやかな紅葉が広がっている。
拝殿横の紅葉
金堂へ上がる参道の石段
参道石段中程の右側、鎮守堂の黄葉が目を引く。子供を守る鬼子母神がまつられたお堂のようである。
金堂の手前。左の恩賜講堂へ向かう参道の紅葉も見事である。
恩賜講堂
参道石段 金堂前の紅葉
弁天堂・阿弥陀堂の池周辺の紅葉、御影堂へ上がる階段手前の黄葉、開山堂の杉木立の中に混じる紅葉も美しい。鎮守堂前、拝殿前から開山堂前へつづく参道の小径周辺も見応えがある。
観心寺は、飛鳥時代701年に役小角によって開設された古いお寺である。役小角(えんのおづの)は修験道の開祖である。弘法大師空海ゆかりの寺であり、平安時代に当寺の名称を歓心寺と改めた。
後醍醐天皇の信任が厚く、南北朝2代天皇の後村上天皇の旧居跡や御陵もある格式の高いお寺である。
河内長野駅からバス約25分くらい。修験道・役小角、密教・空海ゆかりの山岳寺院という意味では岸和田市の牛滝山大威徳寺と同じ。平日に訪れたためか、都心から遠く交通が不便なためか、参拝者はあまり多くない。
今回のビデオは、前回の牛滝山大威徳寺と同じくスチルカメラCANON EOS Kiss X4の動画モードで撮影した。

いつも使っているVICTORのビデオカメラでは、手持ちでもあまり不安がない。しかしスチルカメラでは、手ぶれの懸念がある。観光客の多いお寺ではカメラの三脚禁止という場所もあるけれど、観心寺ではその旨の案内表示もなかった。三脚を使えて、手ぶれの懸念がなくなったのは幸い。
ビクターのビデオカメラでも、マニュアルであればもちろん露出変更してボケ表現も可能。ところが、マニュアルに変更するのが億劫で、ついついなれたオートで撮影してしまうのである。
EOS Kiss X4であれば、撮影マニュアル設定の方がなれている。そこで、デジタルスチルカメラならではのボケ味表現にチャレンジしてみたというわけ。ピント合わせに、まだ慣れが必要かと思う。画題としては、風景より花のクローズアップとか人物のプロフィールの方が好適かとは思うけれど、ものは試しである。
■観心寺

2012年11月11日日曜日

大阪の紅葉名所を歩く:牛滝山大威徳寺

昨日、土曜日は、泉南エリアの紅葉名所・牛滝山大威徳寺の紅葉見学にでかけた。岸和田市の山手、葛城山系の牛滝山にあるお寺である。
■ウィキペディア大威徳寺 
飛鳥〜奈良時代の修験僧、役小角(えんのおづの)が開設したと伝えられる。
大威徳寺の開設者・役小角は役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、修験道の開祖である。
奈良吉野の金峯山寺、南大阪の七宝瀧寺・観心寺など、役行者が開設したと伝承される寺院は数多い。
■役行者霊蹟札所会

まだ早いかなと懸念していたが、渓流側の樹々は赤や黄色にかなり色づいており、紅葉の名所ならではの光景を楽しむことができた。紅葉見物の合間に聞こえる、野鳥の鳴き声が耳に心地よい。
牛滝山 大威徳寺
牛滝山大威徳寺 多宝塔
牛滝山 大威徳寺
鐘楼・多宝塔前の紅葉

山門や鐘楼・多宝塔・本堂付近など、境内の紅葉はまだ部分的。例年、20日頃が見頃ということである。
堂内でもひときわ目をひくきれいな建物、多宝塔の周辺も紅葉は色づきはじめ。多宝塔をとりまく樹々の葉は緑が多いが、その中に赤や黄色がアクセントのように添えられている。柱・梁・垂木の朱色、屋根の銀色、塗り壁の白色と樹々の緑の対比が美しい。緑の葉の中に混在する、黄葉や紅葉も文字通り彩りとなっている。
牛滝山 大威徳寺
本堂から多宝塔を望む
牛滝山 大威徳寺
多宝塔
見頃から10日ほど早かったためか、紅葉見物の参拝者もあまり多くない。このため、昼食を食べ損なってしまった。数年前の紅葉まっさかりの時期に訪問したとき営業していた山門前の茶店が、残念ながら閉じていたのだ。来訪前に駅前のコンビニで弁当を購入すればよかったと思ったが、後のまつりである。
左は鐘楼、中央に多宝塔、右奥は本堂
左は鐘楼、中央に多宝塔、右奥は本堂
牛滝山 大威徳寺
多宝塔
来るときに乗ってきた南海バス、駅へ行く帰りのバス発車まで一時間以上待たなければならない。
大威徳寺の北、徒歩数分の場所に食堂を備えた温泉リゾート・牛滝温泉いよやかの郷がある。温泉の食堂で食事して休憩でもしようとして、いよやかの郷まで行ったところ、ちょうど駅へ行く送迎バスがでるところにであった。結局、食事はしないでバスに乗って帰ってきた。
牛滝山 大威徳寺
一の滝
牛滝山 大威徳寺
一の滝、二の滝、三の滝

お寺から数分も歩くと、滝がある。手前から一の滝、二の滝、三の滝とならぶ三段の滝である。
山にこもって厳しい修行をする、修験道の霊場にふさわしい立地といえる。
東となりの渓流・牛滝川のほとりの小径は、和泉葛城山に上るハイキングコースになっている。葛城山の展望所からは、大阪湾、関西空港、淡路島を一望するすばらしい眺めを楽しめる。
次に来るときは、日帰りで温泉につかりながら紅葉見物もいいかも知れない。
温泉は宿泊もできる。時間に余裕があり、マイカーで往復するなら、葛城山ハイキングを楽しむのも面白い。
■牛滝温泉いよやかの郷
http://www.iyoyaka.jp/index.html
牛滝山大威徳寺への交通は、南海電車・岸和田駅前またはJR久米田駅から南海バス牛滝山行き乗車。終点の牛滝山で下車すぐ。JR久米田駅の場合は、乗車するバス停が少し離れた場所にある。駅前商店街を歩いて数分。2車線道路の交差点を右へ折り返した亀井病院前、久米田バス停。
南海岸和田駅またはJR久米田駅前から、牛滝温泉いよやかの郷行きの送迎バスも利用できる。こちらは運賃無料。いよやかの郷からお寺の山門まで、徒歩5〜6分である。
いずれのバスも本数があまり多くないので、事前にダイヤを確認しておきたい。

2012年11月9日金曜日

現代の大阪市中心部(北区・中央区・西区など)は昔、海だった

難波宮(なにわのみや)は、大和王朝の古代宮殿

四天王寺ワッソの会場となった難波宮跡の史跡公園は、大阪府庁や大阪城の南部に位置する。会場からは大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館などのビルが見渡せる都心エリアである。
四天王寺ワッソの会場 難波宮跡史跡公園
四天王寺ワッソ会場 難波宮跡公園
四天王寺ワッソの会場 難波宮跡史跡公園
四天王寺ワッソ会場 難波宮跡公園
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代に当地にあった古代宮殿。
飛鳥に先駆ける古墳時代に、仁徳天皇が上町台地の当地に宮殿を置いたと伝承されている。上町台地を削り、河内湖と大阪湾を結ぶ運河=堀川を掘削する大土木工事を行ったようである。
古代の難波宮周辺は、西に大阪湾、東に河内湖(潟)の間を南北に貫く岬のように突き出した上町台地の北端部分【下図参照】である。
大阪の古地理図(弥生時代中期) (c)趙哲済・松田順一郎
大阪の古地理図(弥生時代中期)
(c)趙哲済・松田順一郎
大阪の古地理図 河内湖Iの時代 (弥生〜古墳時代) (c)梶山彦太郎・市原実
大阪の古地理図 河内湖Iの時代(弥生〜古墳時代)
(c)梶山彦太郎・市原実

建造された当時、巨大古墳は葺石に覆われた石山のような景観

瀬戸内海を航海してきた中国や朝鮮の交易船は、大阪湾で堺市の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)ミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)を望み、河内湖に入ると羽曳野市の誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)などの巨大古墳を望みながら、わが国へ上陸したことであろう。

ちなみに、現在各地で見られる古墳は松などの樹々が生い茂る森のような外観をしているが、古代に建造された当時は異なる景観であったようだ。エジプトのピラミッドなどと同様に、頑丈な葺石に覆われ、円筒埴輪などが並べられた人口の石山(石塚)のような景観をしていたと推察されている。
海上を曳行する船から望むと、素晴らしい眺めだったであったろう。
葺石の景観を再現した五色塚古墳
葺石に覆われた景観を再現した五色塚古墳
葺石の景観を再現した五色塚古墳
葺石に覆われた景観を再現した五色塚古墳
難波宮付近は、海外各国との交流拠点となる国際貿易の港
難波宮付近は、当時、中国や朝鮮半島との交流の拠点となる国際貿易港であった。大規模な倉庫群跡も発掘されている。時代の先端を行く流行の発信基地だったのだ。
上町台地の西側=現代の大阪市中心部(北区・中央区・西区など)は、当時は海=大阪湾であった。京都から淀川、奈良から大和川が河内湖を経て大阪湾に注いていた。大和川はいくつかの支流に分かれていたが、たびたび氾濫したようである。大阪は、よくも悪くも水の都であった。
上町台地の東西にひろがる現代の市街地は、古代から近世へ数百年にわたって河川の土砂が堆積したり、豊臣秀吉の「大坂城」建築にかかわる埋め立てによって作られた人口の地盤である。
江戸時代の「大坂」古地図
江戸時代の「大坂」古地図

河川治水の大規模な土木工事としては、淀川の文禄堤と大和川付け替えが代表的なものである。文禄堤は、安土桃山時代に豊臣秀吉が築造。江戸時代には、中甚兵衛を代表にした庄屋たちの尽力により大和川の付け替えが実施された。大和川は、柏原市の石川との合流地点から旧来は北へ流れていた。これを新たに西へまっすぐ、堺市を経由して大阪湾に注ぐ経路に付け替えたのである。
豊臣秀吉の文禄堤と江戸時代の大和川付け替え
豊臣秀吉の文禄堤と江戸時代の大和川付け替え

大阪平野の変遷に関する詳細は、例えば下記のサイト参照。
■大阪湾環境データベース
■大阪平野の地形と特色
■淀川の成り立ちと人とのかかわり

2012年11月8日木曜日

四天王寺ワッソ:見応えがあった白頭学院生徒たちの<夢舞>ムーブ

難波宮(なにわの宮)を舞台にした古代の国際交流を再現したお祭り

舞い踊りながら巡行
舞い踊りながら巡行する女性たち
船鉾にのった使節
船鉾にのった使節

11月4日は、四天王寺ワッソを見学した。飛鳥・奈良時代の国際交流を現代に再現したお祭りである。ワッソとは韓国語で「来た」という意味のようだ。
日本の総理大臣、韓国の大統領から祝辞が届くレベルのお祭りである。野外で開催されるために、雨天中止となることがあるのが残念である。
■四天王寺ワッソ


聖徳太子をはじめ日本の朝廷の人々が迎えるなかを、耽羅・加耶、百済、高句麗、新羅、朝鮮王朝などの使節団が巡行。古代衣装に身をつつんで仮装した人々が、通路やステージ上で舞い踊る姿がエキゾチックである。
中でも印象的だったのが、韓国系の民族学校・白頭学院建国学校の生徒たちによる韓国伝統舞踏。<夢舞>ムーブと名付けられた舞踏は見応えがあった。ラスト部分のアリラン合唱と演舞が感動的。日頃の鍛錬ぶりが偲ばれる熱演であった。少年少女の若々しい輝きにみちた舞踏が、巡行のフィナーレを飾るという演出は見事である。


日韓友好のシンボルともいえる締めの和太鼓・しまい太鼓も見事なできばえ。間近に見ることができて、迫力があった。ワッソHPの記事によれば、民団大阪が練習会場を提供したようである。これもまた国際交流の証といえるだろう。


仏教伝来の当時、日本で最初に建立された寺院・四天王寺

四天王寺は593年に聖徳太子が建立したと伝えられるお寺。
仏教伝来の当時、日本で最初に建てられた寺院であり、海外の賓客をもてなす迎賓館の役割も担っていたとされている。
四天王寺ワッソは、1990年に第1回開催。当時は、谷町9丁目から四天王寺にいたるメインストリート谷町筋がイベント会場であったが、2001年事情により開催中止となった。その後、主催者を変更して2004年に復活。再開後は、ワッソの会場が難波宮史跡公園に変更された。