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2013年10月29日火曜日

大阪マラソン2013、車いすランナーの激走に拍手

大阪マラソン2013を見学してきた。約3万人のランナーが参加する大規模なマラソンである。
目当ては、昨年、一昨年と見学して感心した車いすによるフルマラソンの撮影である。

42.195kmを走りきるだけでも大変なのに、腕と手と上半身を駆動力にして車いすで走行する苦労は計り知れない。上り坂などはかなり辛いはずだ。
今年の車いすトップ走者・花岡伸和さんのタイムは1時間35分28秒。マラソン男子優勝者の記録2時間12分06秒よりも30分近く早い。
主催者の発表によれば、フルマラソンの完走率95.1%。参加した走者の奮闘も素晴らしいが、車いすランナーの激走にもアタマが下がる。

大阪府庁前のスタートから撮影開始。大阪城のお堀にかけられた橋を上がり下がりしながら、レース前に走者がウオーミングアップしている光景が絵になる。
地下鉄で移動してレース途中の様子を御堂筋本町界隈で押さえ、ゴールの南港インテックスへ急ぐ。昨年、一昨年と車いすトップのゴールイン光景を撮り損なっていたが、今年はうまく間に合った。
ゴールへ向かう上り坂を、チカラをこめて上ってくる車いすランナーたちの姿が印象的である。
車いす1位 花岡伸和選手
男子1位 ジャクソン・リモ選手
マラソン男子・女子共に優勝はケニアの選手。男子1位ジャクソン・リモは、フルマラソン初体験で優勝。40kmあまりを走ってきたとは思えないほどのスピードで、ゴールへ向かって駆け抜けて行った。走行フォームも美しい。
女子の部、2位の吉住選手は小柄な色白の選手である。素晴らしいスピードで坂を駆け上がる姿が清々しく爽やかである。

2013年10月7日月曜日

EOS 7Dで鳳だんじり祭の撮影にトライ、動画モードも実戦初体験

10月4・5・6日は、堺市各地でだんじり祭が開催された。4日・5日は、鳳だんじり祭を見学。CANONの一眼レフEOS 7Dで撮影にトライした。従来のKiss 4Xと比較しながら、現場で本格的に使用してみた。
CANON  一眼レフ EOS 7D 連写撮影のサンプル
EOS 7Dの連写性能 撮影サンプル


■連写と連続撮影枚数:素晴らしい高性能
静止画は記録画質、Lファインに設定。連写性能はカタログ公称の通り、秒8コマを難なくこなす。
2〜3枚撮影すると画像処理のため止まってしまう、Kiss 4Xとは雲泥の差である。
連続撮影枚数も、シャッターを押し続けていれば数十枚は楽々いける。
走り抜けるだんじりの大屋根で飛跳ねる大工方の姿も、スムースにピントを合わせながら追尾できる。
だんじりを引っ張る前綱の子供たちや青年団の躍動感あふれる姿も、無理なく撮影できてなかなかシブイ一眼レフである。


■動画モードによる撮影:ピンぼけシーンもあり、ちょっと問題
だんじり撮影は、観客も多く危険なので基本的に三脚は使えない。動画も手持ち撮影せざるを得ない。
初日4日鳳&八田荘地区交流曳行と、商店街を駆け抜ける5日午後の熊野街道曳行を7Dの動画モードEOSムービーで撮影してみた。
四つ角のやり回しが見せ場の交流曳行、直線コースを猛スピードで疾走する熊野街道曳行。いずれも、意外と手ぶれせずに撮影できたのがウレシイ。カメラのサイズが大きく重いことが、手ぶれ防止のためには却って効果的なのかも知れない。
問題は、ピンぼけになってしまうシーンがあること。半押してピントをあわせたつもりでも、一連のコマが合焦しないまま動画になってしまう。オートフォーカスが上手く機能する場合も多いが、機能しないケースも結構多い。この点では、Kiss 4Xの動画モードの方が優れている感じである。
よく似た名称の、一眼レフEOS 70D。7の後に0がつく最近販売されたこの機種は、7Dのこうした欠点が大幅に改善されているようである。
5日午前、鳳大社へ10台のだんじりが宮入りと宮出しをするシーンはSONYのビデオカメラCX720Vを使用した。こちらは動画専用なので、オートフォーカスに関しては何の問題もない。
一眼レフで動画を撮影しようとすること自体、やはり無理があるともいえる。しかし、一眼レフとビデオカメラと2台のカメラを携行するのは煩わしい。
スチル写真をメインにするが、動画向きのシーンがあったときに撮影する用途としては必要充分な機能を備えていると思う。

2013年10月1日火曜日

CANONのカメラ、EOS D7の高速連写性能にびっくり。

高速連写性能が優れていると評判の一眼レフカメラ、CANONのEOS D7を手に入れて試写してみた。スピーディな高速連写性能にびっくり。使うカメラによって連写性能がこんなに違うか、と実感した。
CANONの一眼レフカメラEOS D7の連続撮影 撮影見本
EOS D7の高速連写サンプル

いままで愛用していた一眼レフカメラは、EOS Kiss X4。まずまず満足して使っていた。
贅沢をいってはキリがないけれど、素人の私が趣味としてスナップ写真や動画を撮影する上では、かなり出来のいいカメラである。
不満の第一は、動きのあるシーンを撮影する際の高速連写が上手く行かないこと。
だんじりのやり回しを撮影しようとすると、2〜3枚連写したところで画像処理のために止まってしまう。
仕様では連続撮影速度最高約3.7コマ/秒 連続撮影可能枚数JPEGラージ/ファイン:約34枚 RAW:約6枚となっている。
記録画質RAWで使っているせいかもしれないが、連続撮影機能はほとんど使い物にならない。
大工方が跳躍しているシーンを撮影しても2〜3枚連写して止まってしまうので、次にシャッターが切れるようになったときにはだんじりが走り去ってしまっている。トホホッである。よほど上手いタイミングで撮影しないと、狙った絵が撮れない。
EOS D7の場合は、連続撮影速度最高約8コマ/秒 連続撮影可能枚数JPEGラージ/ファイン:約110~130枚 RAW:約23~25枚の仕様である。
浜寺公園でEOS D7の連写性能を試してみた。RAWとJPEGラージ/ファインで高速連写性能を試す。仕様表記の最高8コマ/秒をクリア。タタタタタタタ〜といった感じで気持よく連写ができる。RAWの場合、連続撮影可能枚数の制約があるからか、秒8枚のときと6〜7枚のときがある。
JPEGラージ/ファインであれば連続撮影枚数を気にせず、高速連写をラクラクこなせそう。RAWの場合は連続撮影枚数は少なくなるだろうが、秒8コマの高速連写が十分可能だと思う。
EOS D7とよく似た品番、7の後に0が付くEOS D70がCANONから最近発売された。新しい機種なので動画性能などはこちらの方が優れているようだが、スチルカメラとしての基本性能はD7が上という口コミが多い。D70とD7と、どちらにするか迷ったけれど、結論として7にした。D7は改良版のMark2が来春くらいにでるという口コミもあるが、価格が高くて手が出ない可能性が高い。
販売開始が4年ほど前の型落的な機種とはいえ、中古で買うリスクを考えれば新品の方が安心と判断した。
Kissで使っていたEFS18-135mmは望遠の倍率が高くて便利であったが、ピントが若干あまい感じ。D7のレンズEFS15-85はピントがあわせやすく、性能が良さそうである。
EOS D7はD70やKissよりひとまわり大きく、重さもズッシリとしているのが難である。逆光撮影時の補正方法がよくわからないけれど、だんじり祭やスポーツ撮影においてはかなり期待が持てる。

2013年9月18日水曜日

岸和田だんじり祭:雨のだんじり曳行とラグビー

秋は台風シーズン。9月中旬に行われるだんじり祭も、雨にみまわれることが多い。好天気であっても、にわか雨が降ることもある。
昨年は宵宮・夜の灯入れ曳行が雨天に加え落雷のため中止になったけれど、日中の曳行は基本的に雨天決行である。
今年2013年の本宮も宮入りの途中から、かなりキツい雨となった。

傘をさしての見物は禁止のため、屋根付きの通路がある南海電車岸和田駅前に移動して曳行を見学。1時前から宮一番・宮本のやり回しで午後曳行が始まった。
曳行開始を少し過ぎた頃から、かなりキツい雨となり曳き手たちもずぶぬれ。足場が悪いし、だんじりもかなり重量をまして曳行は苦痛のはず。しかし、曳き手は威勢の良い掛声と共に綱を引き、大工方は大屋根の上を好天の日と変わりなく飛跳ねている。
岸和田だんじり祭
ずぶぬれの少女
岸和田だんじり祭
少年団の子供たち
曳き手の主役は青年団であり、彼らが頑張っているのは理解できる。しかし、感心するのは子供たちの奮闘である。中学生はもちろん、小学校低学年の子供たちも必死になって綱を引いている。苦しい表情になっている子もいるけれど、凛々しい表情の子も多く、時には笑顔を浮かべたりしている子もいる。
子供の付き添いとして曳き手の横を並行して走ったり、だんじりの後尾を駈けるお母さんたちの頑張りも素晴らしい。
綱先を曳く少年団
やり回しのキーマン前梃子
病気になったら困るから、子供たちに雨風の中を綱を曳かせたくないというのはごくふつうの親心であろう。祭の世話役や若頭たちも、本音の部分では子供たちに曳かせたくないかも知れない。
しかし、子供たちが雨風の中を曳くのをあえて認めているのはなぜか。
子供とはいえ、町が一体となって催行する祭を支えるかけがえのない一員として認めている証だからではないかと思う。
イギリス生まれ、紳士のスポーツとされるラグビーやサッカーも雨天決行である。試合をするのは紳士の約束。天候が悪いから言って、約束の日時に試合しないような人間は紳士たるものの資格がない。
だんじり祭も同じく、複数の町が一体となって行う吉例の祭事。ひとつの町だけが、イチ抜けたでは済まされない行事である。
ラグビーには、だんじり祭と共通すると思われるいくつかの名言がある。
以下、「ラグビーに関する豆知識」からの引用である。
例えば「One for All , All for One。ひとりは皆んなのため、皆んなはひとりのために」。自己犠牲の精神は、ラグビーの基本であり、だんじりもまた同じ。
あるいはまた、元フランス代表キャプテンのジャン・ピエール・リーブ氏の有名な言葉「ラグビーは子供をいち早く大人にし、大人にいつまでも子供の魂を抱かせる」。
明治大学・神戸製鋼で活躍した大西一平氏の次のような言葉も忘れがたい。
「ラグビーって痛いしきついし危険だし、人間性がよく見えるんですよ。なぜならば、ボールを持った選手は敵陣に突っ込んでいかなきゃいけないし、相手が突っ込んでくればタックルに入らなければならない。けれども他の選手は0.0何秒わざと遅れることで痛い思い・怖い思いをしないですむ。恐怖感が増せば増すほど、勇気とチームメイトへの信頼感が要求されるわけで、人間同士の深いつながりが確認できるんです」と。
雨の日のだんじり曳行も、また同じことが言えるのではないか。
■ラグビーに関する豆知識

最後に、観客のマナーについてひとこと。傘を差して見学しているひとがおり、警備のマイクで警告されても平気で差し続けている。傘を差していないひとを濡らしたり、混雑した人混みの中では他人を傷つけたりする危険がある。視界をさえぎられ、前を見渡せないのも困る。厚顔無恥というほかはない。

岸和田だんじり祭・宮入り 城を背にしてお堀端を曳行するだんじりの美しさ

9月15日、本宮。台風の影響で天気予報は雨であったが、岸和田だんじり祭の宮入りを見学に出かけた。
家を出るときには雨がふっていたが、蛸地蔵駅に着いた頃には雨が止み曇天に変わっていた。

岸城神社の前を通って、岸和田市役所へ向かう。目当ては、もちろん、こなから坂のやり回し。市役所からお城へ向かう坂を、だんじりが猛スピードでやり回しをして駆け上がる光景は何度見ても迫力がある。
宮入りのもうひとつの楽しみは、お堀端をゆっくりと曳行するだんじりの光景。お城を背にして、手前にだんじりのある姿。逆に、お城を手前にしてお堀の彼方にだんじりを望む姿。いずれも、風情豊かで美しい。
お城を背にしてゆっくりと曳かれるだんじり
宮入りを待って停止中のだんじり
荒々しく粗野なイメージを抱いて敬遠しておられる方には、岸和田城のお堀端をめぐるだんじりの絵になる姿を、ぜひ一度見てほしい。
宮入りしてお祓いを受けるために、3基くらいのだんじりが順番待ちをしてお堀端で停止する。
岸和田だんじり祭
子供が大屋根に乗っているだんじり
岸和田だんじり祭
お堀端で待機中のだんじり
待機中は、小さな子供たちが、時には主役となる。大工方が乗る大屋根に乗せてもらったり、だんじりの中に座りお祭り囃子を演奏したり、楽しい時間を過ごすことができる。小学1〜2年生くらいの子供たちが笛・太鼓・鉦を見事にあやつり、生き生きと祭り囃子を演奏している光景は見ている私たちも幸せな気分にさせてくれる。
岸城神社にお参りした曳き手の子供たち
神官からお祓いを受けるだんじり
お堀端でだんじりを眺めているうちに、雨が降り出してしまった。雨宿りをかねて、だんじり宮入りの光景を見物に岸城神社へ向かう。だんじりがお祓いを受けたり、町の役員たちが御清めを受けたりする場面も拝観できた。
勇壮なやり回しが脚光を浴びがちであるが、だんじりが岸和田城のお堀端を曳行するありさまもまた、見応えがある。やり回しの躍動感に対して、こちらは和やかな静謐感。城下町ならではの歴史や伝統を感じさせる光景である。古い町家や寺院がが残る紀州街道のまちなみ保全地区を曳行する様子も情緒がある。

2013年9月17日火曜日

岸和田だんじり祭・宵宮 早朝の曳き出しをカンカン場で見学

9月14日宵宮。岸和田だんじり祭は、早朝6時からの曳き出しで始まる。
南海電車岸和田駅前では、宮1番の宮本が先頭を切ってやり回しを行う。
湾岸エリアの見どころとなるカンカン場では、大北町が一番手としてやり回しを行うのが恒例である。

大北町・中北町・大手町・紙屋町・中之浜町・中町・大工町の浜七町は、大阪湾岸部に位置する。小学校校区の全町でだんじりを持っており、岸和田の中でも、とりわけだんじり熱の高いエリアらしい。
一度、カンカン場で宵宮の曳き出しを見てみたいと思い、早起きして出かけた。
昨年も始発電車で出かけたが、5時45分頃に小門・貝源のあたりで大北町のだんじりに出逢ってしまった。
そこで今年は別の交通手段を利用して、4時半頃にカンカン場へ到着。夜明け前で、まだ薄暗い。しかし、観客がすでにたくさん集まってきている。
5時半頃からは、有料観覧席も続々と人が座席に着く。ゴルフ場前のS席。他の時間帯は4,000円であるが、宵宮の早朝6時〜7時半は6,000円。
最終に近いやり回しが見物できる本宮の午後3時半〜5時の7,000円に次いで料金は2番目に高い。観覧席の料金設定にも、観客が「通」であることが伺える。
ゴルフ場前の有料観覧席
先頭を切ってやり回しを行う大北町
定刻6時前、5時50分頃に大北町だんじりが登場。交差点の手前に到着後、2〜3分後には早々と笛の合図と共にやり回しが始まった。その後、各町のだんじりが次から次へとやり回し。だんじりは定刻6時の30分前から、遅くとも10分前には各町のだんじり置き場を出発するようである。
本番の緊張もあってか、ぎこちない動きをしたり、電柱にぶつかりかけたりするだんじりもある。昨年転倒してしまった紙屋町は、今年もだんじりが少し傾き揺らいでしまったが、まずは無事にやり回しできてよかった。
撮影のために結構いい場所を確保できたはずだったが、やり回し開始前に立ち入り禁止場所であることが判明。別の場所に移動したりするドジな失敗はあったが、祭の始まりはやはりエキサイティング。早起きした甲斐があった。


2013年9月9日月曜日

岸和田だんじり祭 試験曳き、南町の見事なスライディング

9月・10月は、だんじり祭の季節である。その代表格ともいえる岸和田旧市エリアの試験曳きを見学してきた。

かなりの人出ではあるが、本番より観客はやや少なめ。ビデオ撮影には好条件である。 
岸和田旧市エリアでは22基のだんじりが曳行する。うち1基、南町だけが行う独自のやり回し手法がある。
南町のスライディング
南町のスライディング

やりまわしの際、だんじりに最も近い曳き綱の部分=綱元を担当する数人が地面に体を倒しながらだんじりを操作する。地元のひとはスライディングと名付けていた。野球の滑り込みのような動作である。この光景をカメラにおさめたいと考えて、南町のだんじり小屋に近い蛸地蔵交差点へ向かう。
岸和田駅を降り、風情のある歴史的町並みが残る紀州街道を通り、交差点で曳行開始を待つ。 

曳行開始にはまだ早いはずだが、本町だんじりが交差点でやり回し。少し先で止まり、元のだんじり小屋の方に引返していった。準備運動というか、試験曳き前の試験曳きのようである。1年間、待ちに待った祭が始まる。待ちかねて、はやる気持が微笑ましい。 
定刻近く、南町だんじりが登場。紀州街道から疎開道へ向かう蛸地蔵交差点をやり回し。見事なスライディングをビデオ撮影できた。 
ビデオから切り出した写真をみると、綱元の6人が地面に体を倒しスライディングするようである。だんじりが、すぐ後ろを走ってくる。かなり危険ではあるが、粋でシブイ男気を感じさせる行為である。 
南町に続いて、本町。さらに堺町のだんじりがやり回しするのを見て、カンカン場へ向かう。 
カンカン場では、運良く紙屋町のやり回しを見学できた。昨年、カンカン場で転倒。修理を終えただんじりの初陣である。関係者の厚い思いが偲ばれる。 
見事にやり回しを終えた後、世話役であろうか、年配の男性が微笑みを浮かべている光景が印象深い。 
カンカン場や貝源・小門は、宵宮・本宮ではいつも大混雑。遠くの離れた位置からしか見学できない場所であるが、かなり近い位置から撮影できてラッキーであった。試験曳きならではのメリットである。

2013年8月18日日曜日

なら燈花会 手持ちで夜景がキレイに撮れるSONYのビデオカメラHDR-CX720V


なら燈花会を見学してきた。8月5日〜14日に奈良公園一帯で開催されるライトアップイベント。1999年からはじまった夏の風物詩である。

夜の撮影なので三脚持参ででかけたが、残念ながら三脚使用は禁止。手持ちで撮影するほかない。
持参したカメラはCANONのEOS Kiss X4と、SONYのHDR-CX720V。ロープをつないでいる杭やベンチ等の支えがある場所ではそこにカメラをおいて撮影したが、基本的には手持ち撮影。
EOS Kiss X4では静止画、HDR-CX720Vでは動画を撮影した。
EOSの静止画は手ぶれ防止のため1/90秒で撮影したが、残念ながら露出不足が否めない。
HDR-CX720Vの動画はオート撮影。こちらの方は、手持ち撮影の場合でも結構キレイに撮影できている。
レンズはEOSがEF-S18-135でF値3.5〜5.6。CX720がCarl Zeiss Vario SonnarT*でF値1.8〜3.4。ビデオカメラのレンズの方がかなり明るいからか、静止画と動画との撮影条件の違いなのか。理由はよくわからない。
SONYのビデオカメラHDR-CX720Vは、三脚を使わない手持ちでも夜間撮影に対応可能。結構キレイに撮影できると実感できた。
EOSの方は、次の機会に再チャレンジ。ISO感度を1000以上に上げて撮影してみて、どんな結果がでるか試してみようと思う。
電飾イルミネーションで彩られる神戸「ルミナリエ」や大阪「光のルネッサンス」のような華やかさはないけれど、ロウソクのほのかな灯火は古都・奈良にふさわしく趣ゆたかである。京都大文字ほど知名度は高くないけれど、灯火を楽しむ観客の多さをみると一般的にもかなり知られてきているようだ。
燈花とは、灯心の先にできる花の形。お盆前の季節、鎮魂招福を祈願するにふさわしい催しである。
2万灯を越えるロウソクに1本1本火を灯して行く作業をはじめ、イベント運営がボランティアの手でなされていることも素晴らしい。
■なら燈花会
興福寺、猿沢池と五十二段、浮見堂、浅茅ケ原の順に見て回った。
興福寺、五重塔と東金堂の前では「債」という文字のかたちに行灯が灯された。なぜ、この文字なのか、ちょっと気になる。

2013年8月17日土曜日

尼崎だんじり祭、ちょっと過激な暴れ太鼓とだんじり同士の山合わせ

暑い夏の盛り、8月1日・2日、貴布禰神社の夏季大祭・尼崎だんじり祭を見学してきた。祭の見どころは、暴れ太鼓と山合わせ。かなり荒々しいけれど、神事らしい趣にあふれた祭礼である。

初日1日の宵宮では、8台のだんじりを先導する形で辰巳太鼓が一番に宮入する。
辰巳太鼓は、白装束に赤い烏帽子頭巾の役打(太鼓の叩き手)4人を乗せた、だんじり型の地車である。宮入をして拝殿でお祓いを受けた後、役打が烏帽子を脱ぎ捨てると、太鼓屋台は暴れ太鼓に変身する。担ぎ手が太鼓台を前後に大きく傾けた後、右へ左へ繰り返し横転させ、地面に叩き付ける。
太鼓台の役打4人とふたりの介添え役はもちろん、担ぎ手たちも大ケガをしかねない。かなり危険でスリリングな祭事である。
神輿を壊してしまう暴れ神輿とか神輿まくりとかの祭事を行う例があるが、尼崎だんじり祭では太鼓台が暴れ太鼓になる。
暴れ太鼓の神事に引き続き、8台のだんじりが宮入。貴布禰神社のだんじりは、綱で引っ張る岸和田型とは異なり、神輿のように縦横に組み合わせた棒で担ぐスタイルである。
宮入では、担ぎ棒を斜めにして先を数mの高さに掲げ、だんじり後部を起点にしてグルリと回転させる祭事が行われる。

2日目、本宮の見どころはだんじり同士の山合わせ。向き合った2基のだんじりが担ぎ棒を前部を斜めに大きく上げて、相手のだんじりの担ぎ棒の上に乗せることを競い合う祭事である。2基の対戦が16回行われ、それぞれのだんじり応援団の声援が熱い。
■貴布禰太鼓地車保存会
阪神尼崎駅から貴布禰神社へ向かう道筋にある長いアーケードの商店街(神田中通り・三和本通り)のにぎわいも印象深い。
シャッター通りと揶揄されるように、さびれてしまった商店街は数多いが、道筋の商店街では閉店しているお店がほとんど見当たらない。
尼崎は工業都市のイメージが強いが、江戸時代は阪神間で唯一の城下町であった。城下町の歴史的遺産・寺町の閑静な風情も味わい深い。

2013年7月21日日曜日

祗園祭の山鉾巡行と神輿渡御神幸祭、静と動のふたつの祭

7月17日、祗園祭を見るために早起きして京都へでかけた。初めて見学した一昨年は日曜日だったので、満員電車のような人、人、人。文字通り、足の踏み場もないほどの大混雑であった。昨年と今年は平日のため、一昨年ほどではないが圧倒的な人出であるのに変わりはない。


稚児さんが長刀鉾に乗り、四条烏丸から出発する光景から撮影開始。しめ縄切り、交差点で山鉾を方向転換させる辻回し、新町御池で稚児さんが鉾から降りる場面などを撮影。神の使いとされる稚児さんは、社参の儀以降は地面に足をふれないなど、さまざまな決まり事を守りながら祭事に臨む大役である。鉾に乗込む場面や、しめ縄切りで太刀が綱を見事に断ち切った瞬間、鉾から降りるシーンでは観衆からどよめきと拍手喝采が起きる。


正午過ぎに山鉾巡行が終わったので、神輿渡御の神幸祭が行われる八坂神社へ向かう。
神幸祭は、八坂神社から市内中心部・四条寺町にある御旅所へ神輿が曳行する祭事である。24日には、神輿が御旅所から神社へ還る還幸祭が行われる。神輿は中御座、東御座、西御座の3基あり、東御座では子供神輿も同時に曳行される。
神幸祭の神事は4時頃、綾戸國中神社の久世駒形稚児が騎馬にまたがり南楼門から入ってきて始まった。
綾戸國中神社HPによれば、祗園祭は当社と八坂神社の祭礼である。
ふたつの神社の祭神はいずれも素盞嗚尊=スサノオノミコト。ご神体であるミコトの愛馬の駒形を胸に飾った稚児は神の化身とみなされるので、騎馬にまたがり神社の境内へ入ることができる。
「駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ」と記されている。
山鉾巡行と同様に、神輿渡御でも稚児さんが重要な役割を果たしている。
■綾戸國中神社のHP
古代史の騎馬民族説などが想起されて、興味ぶかい。綾戸國中神社は京都市南区にある神社である。
祗園祭 神輿渡御 神幸祭 駒形稚児
駒形稚児
祗園祭 神輿渡御 神幸祭 中御座神輿
中御座神輿
駒形稚児の騎馬に先導されて中御座(祭神・スサノオノミコト)の神輿が南楼門を出てくる。
神の装束や神宝、駒形稚児、神官などの行列につづいて、中御座、子供神輿、東御座、西御座の神輿が西楼門へ向かう坂道を練り歩く。西楼門の石段下では神職さんによるお祓い。三基の神輿が高々と上に差し上げられ、四条寺町の御旅所へ練り歩く。夕暮れから夜へ向かう時間帯、楼門の赤い柱と黄金色の神輿の彩りが色鮮やかである。
午前中の優美な山鉾巡行とは対照的に、祭らしい熱気と躍動感にあふれた神輿渡御。御旅所へ向かう西御座神輿の後ろに続いて、四条京阪の駅へ向かう帰路についた。

最後に、祗園祭に関する素朴な疑問にもふれておきたい。祭事のメインのはずの神輿渡御より、山鉾巡行の方が圧倒的に知名度が高いのは何故だろうか。
大きな理由のひとつは、高さ約25m重さ10トン近い巨大な鉾や趣向をこらした山が、30数基も連なって巡行するビジュアルインパクトの強さ。動く美術館と評される山鉾が巡行する雅やかな光景は、ひときわ印象的である。長刀や三日月など鉾の頂上にある鉾頭も、シンボリックで美しい。
歴史的な背景も考えておきたい。山鉾巡行は、当初からあった神輿渡御を中心とする祗園会の神事に追加して、室町時代に新たに興された行事であった。祭事に付加するかたちで、京の町衆が立ち上げ、数百年に渡って継承してきた祭事である。
自由で独立心旺盛な町衆にとって、寺社仏閣とは自立した「我らの祭事」と意識されていたはずである。それはたとえば、天文二年(1533)延暦寺によって祗園会の神輿渡御(神幸祭)が中止になったとき、「神事これなくとも山鉾渡したし」と下京六十六町の町衆たちが、山鉾の巡行だけは行いたい、と訴え出たことからも推察できる。
鎌倉末期から室町前期、祗園会は神輿の渡御がたびたび中止や延期になったようである。神輿の渡御が行われていない場合=すなわち神事がない場合でも、山鉾の巡行のみが行われた場合がかなりあるようだ。
■歴史学者:五島邦治さんのHP→ 祇園会「山鉾風流」の成立 参照

2013年6月18日火曜日

仕事人「さだまさし」のステージ、NHKのテレビ番組「さださん、あのねin大船渡」

歌手「さだまさし」の素晴らしいステージをNHKのテレビ番組(BS1で6月16日放映)を録画でみた。 
番組タイトルは「さださん、あのね:公開復興サポート 明日へin大船渡」。
東北大震災に関連した優れたドキュメントを、NHKは数多く放映しているが、「さだまさし」のこの番組もその1本である。 
番組は、最初、軽やかなのりで始まる。岩手県大船渡の会場へ集まった観衆から寄せられた、「さだまさし」へのメッセージを軸にしてステージは展開する。
観衆からのメッセージ
地元PRキャラ「おおふなドン」

例えば、三陸地方を舞台にした朝ドラ「あまちゃん」で有名になった、感嘆符「ジェ」。これと同様に、よく使われるの感嘆符が「バー」であるらしい。
大船渡エリアでの方言やさんまラーメンの話題などに次いで、頭がツバキになっているご当地PRキャラ「おおふなドン」も紹介される。 
震災がらみのメッセージもいくつか紹介された。 
例えば、今年の震災記念日3月11日のエピソード。追悼の意味で当日はおやつを止めにしようとしたところ、6才の孫娘がメロンパンを食べたいという。
幼児には理解できないかと思い買ったパンを、孫娘がちぎり分けて祖母に手渡し「津波でなくなった人に届くよう、仏様にたのんでちょうだい」と依頼したそうである。健気で微笑ましく、しかしまた、泣かせるエピソードでもある。
「奇跡」を歌う「さだまさし」
「奇跡」が愛唱歌だったファンの遺影

あるいはまた、夫婦ふたり「さだまさし」ファンでコンサートをいつも聴きにいっていたが、夫を震災でなくしたという婦人のメッセージも印象的である。
震災を思い出すのが辛くて、震災後は「さだまさし」の歌を一年ほど聴けなかったそうである。亡き夫が大好きだったのが「奇跡〜大きな愛のように〜」という歌。間に別のエピソードや語りを挟んで、唐突とも思えるタイミングで、婦人の手元にかかげられた遺影に語りかけるようにその「奇跡」を歌い始める。 
歌いはじめる前に、さだまさしが語ったことばがこころに残る。
「津波の災害を通して、私たちが教わったもの」として「さだまさし」が語ることば=「今日生きている命というものは、確かなものとして保証されているものではなく、奇跡が積み重なって存在しているもの。今日の命を惜しまずに生きて行かないと、明日がある保証は誰にもない」と。 
一瞬のうちに運命が変わってしまう、はかない、しかし掛け替えのない命についての「さだまさし」の感懐が胸を打つ。 
さすがプロフェッショナルと感じさせたのが、絶唱と思われる「奇跡」を歌い終えた後、フィナーレの一曲として「道化師のソネット」という曲を歌ったこと。観衆の手拍子も混じり、歌詞もリズムも明るい歌である。
感動的な歌「奇跡」ではあるが、追悼歌に近い歌である。しんみりとした気分ではなく、明るく元気な気分で観衆を送り出したいという「さだまさし」の配慮であろう。シブイ仕事人である。 
「奇跡」が歌われた動画がYouTubeに掲載されているので、最後に紹介しておきたい。 

2013年6月9日日曜日

唐招提寺、鑑真和上1250年御諱の法要と和上座像を拝観

6月6日、奈良の唐招提寺に参詣。鑑真和上1250年御諱(ぎょき)=開山忌法要と、和上座像を拝観してきた。
命日の6日に行われた法要では、献茶や舞楽などが奉納された。

読経にあわせて舞う、小学生くらいの子供たちの姿が凛々しく、健気で、清々しく、こころを打つ。5回にわたって渡航に失敗し、6回目にようやく日本を訪れることができた高僧の遺徳を偲ぶにふさわしい奉納舞楽である。
失明してしまった和上ではあるが、舞台を踏む足音や気配に子供たちの舞姿を感じて、笑顔を浮かべておられることと思う。
舞台から引き上げた子供たちが金堂脇に退き、緊張した面持ちからほっとした笑顔に戻る表情の変化がほほえましい。
唐招提寺 鑑真和上1250年御諱 開山忌法要
奉納舞楽
唐招提寺 鑑真和上1250年御諱 開山忌法要 奉納舞楽
舞を奉納する子供たち
子供たちの舞楽を見学後、和上座像の拝観に向かう。肖像彫刻の傑作とされる座像は、秘仏であり、年に数日しか公開されない。
1250年の開山忌を記念して、今年は座像を模造した身代わり座像が制作され、5日に開眼法要が行われた。7日以降は、この身代わり座像が常時公開される。
御影堂へ向かう境内、小径のツツジが色鮮やか。土塀のくすんだ黄土色に映えて美しい。和上座像の拝観は、多くの方々が並んで、順番待ち。
拝観後、開山御廟に参り、新宝蔵へ向かう。
唐招提寺のトルソーと呼ばれる如来形立像は、頭部や手が失われているけれど、その立ち姿が美しい。別名、東洋のビーナスである。十一面観音立像も、細面のすっきりした表情や立ち姿が神々しい。
唐招提寺 鑑真和上身代わり座像
唐招提寺 鑑真和上身代わり座像
唐招提寺 御影堂へ向かう参道
御影堂へ向かう中興堂前のツツジ
新宝蔵から南大門へ向かう帰り道、御影堂へ向かう身代わり座像の行列に出合う。鮮やかに彩色されて創建時の姿が再現された身代わり座像と、本来の座像の二像を運良く拝観できてうれしい。





2013年3月27日水曜日

ハトを飛ばしに行ってくる、故郷のひとびとに愛された彫刻家・高橋英吉

31才の若さで夭折してしまった、ひとりの彫刻家に関するTV番組を見た。 
NHK日曜美術館「故郷の海を彫った男 石巻の彫刻家・高橋英吉」。東日本大震災に関連した、心にしみる良質なドキュメンタリー番組のひとつである。

高橋英吉(1911-1942)についての知識はまったくなかったが、番組でいくつかの作品を鑑賞。優れた一級の彫刻家だと思う。
彫刻家 高橋英吉
高橋英吉と作品「潮音」
昔も、現在も、そして将来も。彫刻家などの芸術家稼業で生活して行くのは、容易ではない。彫刻家・高橋英吉の幸せは、ふるさとのひとびとに敬愛されてきた芸術家であること。宮城県美術館で行われた企画展の来館者たちは、口々に、高橋英吉とその作品を石巻のまちの誇りと語っている。
石巻は宮城県で仙台に次いで二番目に人口の多い都市。景勝の地・松島にもほど近い。世界でも有数の漁場を間近にした、海のまちである。 
若い新婚時代の思い出として奥さんが語っている。
生活費に困ると、英吉は「ハトを飛ばしに行ってくる」といって、ときたま帰郷したそうである。
ハトを飛ばす、つまり彫刻作品を売ってくるという意味らしい。ユーモアを解するおおらかな人柄を感じさせる言い草である。
生活している東京では、東京美術学校(現・東京芸術大学)をでたばかりの若い彫刻家の作品は買い手がない。しかし、ふるさと石巻には英吉の作品を購入して支援してくれるひとびとがいた。
ハトを飛ばす=作品を購入してもらうと、1ヶ月くらいは生活できたようだ。
高橋英吉の実家は回船問屋であり、大きな缶詰工場を経営していたらしい。友人・知人に裕福な階層のひとびとが多かったと思われる。
例えば、「母子像」は幼いきょうだいのいる家庭の玄関にかざられていた。子供の頭がなでられて少しすり減っているのが微笑ましい。
「少女像」という作品は、旅館の看板娘として飾られていたらしい。生活の糧となった小さな作品たちは、美術館や博物館のケースの中でこぎれいに陳列されるのではなく、生活の場におかれて親しまれてきたのである。 
高橋英吉 少女像
少女像
彫刻家 高橋英吉 母子像
母子像

潮音
黒潮閑日
代表作、海の三部作「黒潮閑日」「潮音」「漁師像」は、いずれも漁師の姿をテーマにして彫っている。英吉にとって、故郷・石巻への深い愛着を示す作品である。
英吉の主要作品が展示されていた石巻文化センターは、東日本大震災に襲われ大きな被害を受けたが、海の三部作は無事救出された。 
三部作の中では、「潮音」が最も印象的。海の潮風にふかれながら、目をとじてまっすぐに立つ木像は、円空の仏像を思わせるようなノミの彫り跡が美しい。その姿は、被災者への鎮魂の思いを胸に、黙祷しているようにも感じられる。 
英吉が東京美術学校を中退し、南氷洋へ向かう捕鯨船に乗り込んで漁師をしたときに目にした光景を彫刻した作品が「黒潮閑日」。スケッチ帖に、漁の合間に仲間のひげを剃る姿のドローイングが残されている。ふたりの男の形づくるフォルムがきわめて造形的である。
「漁師像」は、黒光りしたつややかな肌が美しい。海で働く男たちの姿は、幼い頃から見慣れた原風景であったはずである。 
海の三部作はいずれも、どこか仏像を思わせるような静謐な崇高さを感じさせる。
高橋英吉は仏像も彫っており、母校の図書館やお寺に作品が残っている。
高橋英吉 阿弥陀如来尊像
阿弥陀如来尊像
不動明王像
中でも慈恩寺の阿弥陀如来尊像は、きれいな仏さんである。
住職によれば、お寺も津波に襲われたが尊像の手前で津波が止まったという。すこし細面の美形である。母親のような優しさをたたえた表情が印象的である。 
遺作となった手のひらに収まるような小さな不動明王像と、それを刻んだ手作りの彫刻刀も忘れがたい。戦死した英吉が輸送船の中で流木に彫った作品が、妻の元に届けられたものである。英吉が、戦友たちにも敬愛されていた証と思われるエピソードである。合掌。 
■ラジオ石巻社長のブログ/高橋英吉さん生誕百周年父娘展に思う
 http://radio764-aizawa.seesaa.net/article/147003387.html 
■海の彫刻家 高橋英吉
 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/91010.html
追記)
高橋英吉の企画展が、2012年9月29日から2013年4月14日まで宮城県美術館で開催されていた。
ひとつ残念なことがある。県立美術館なので、かなり高額な費用で建築された建物のはずである。にもかかわらず、優れた作品を展示するスペースとしては、あまりにも貧弱な空間である。彫刻に比較して天井高が低すぎる。形状も四角いオフィスのようなかたちである。
ミロのビーナスのような展示スペースを希望する、とはいわないけれど、展示する空間の形状や壁・天井・床材などにもうひと工夫あっていいと思う。

2013年3月10日日曜日

東大寺のお水取り、二月堂修二会のお松明を拝観

奈良・東大寺のお水取り、二月堂修二会のお松明を拝観してきた。奈良時代の752年以来、1250年以上に渡って毎年行われてきた祭事である。

東大寺といえば大仏が有名であるが、「お水取り」は春の訪れを告げる行事として関西では知られている。3月12日深夜(13日の午前1時半頃)に、「お水取り」という儀式が行われる。このため、12日に行われる祭事と思っていた。12日は大変な人出のようなので、これまで敬遠してきた。しかし、この法会・修二会の本行は3月1日から14日まで2週間にわたって行われている。行を勤める練行衆の道明かりとして、大きな松明に火がともされる光景は12日以外でも拝観できると知り、3月6日・7日の両日、見学にでかけた。
3月6日は、竹の松明に火を点して屋根付き参道の階段をあがる光景と、松明が回廊を駆け抜ける様子をお堂の下の境内から拝観。
東大寺二月堂修二会
参道階段と回廊の松明
東大寺二月堂修二会
回廊を駆け抜ける松明
翌7日は二月堂のお堂の内部から、回廊を松明が走り抜ける光景を間近に見ることができた。
東大寺二月堂修二会
回廊を駆け抜ける松明
東大寺二月堂修二会
回廊を駆け抜ける松明
今回もキャノンのEOS Kiss X4で撮影。動画の撮影は、まずは問題なく行えた。しかし、写真の撮影は残念ながら失敗。
フラッシュ撮影は禁止されている。夜間で、しかも三脚が使えない。露出優先モードのAVでは、手ぶれする。
ISOを高く設定してシャッター速度優先のTVでチャレンジした。1/100くらいで撮影したが、連続撮影モードにしているのに連写が上手くいかない。後になって分かったことだが、「長秒時露光のノイズ軽減」を設定していた。シャッターを切った後、露光時間と同じだけノイズの軽減処置に時間が必要だったことが原因らしい。
順調に撮影できた動画から、静止画写真を切り出すことにした。従来は動画を静止させてキャプチャーしたり、MACのiMovieを使って写真を切り出していたが、結構手間ひまがかかる。
カメラに付属しているMAC用の画像処理アプリケーション、ImageBlowserを使ってみることにした。これが結構使えて、便利である。作業手順は「編集>動画から静止画を取り出す>動画を選択>全てのフレームを取り出す」。全てのフレームが選択されるので、いったん「全てクリア」。取り出された静止画フレームの中から、希望のカットを選択して保存する。これで、OK!
結構手間ひまがかかていた従来の方法から比べると、ずいぶんラクでありスピードアップできる。





2013年3月4日月曜日

NHK日曜美術館「ふたりのキャパ」。残念ながら、ちょっと期待はずれ

NHKのテレビ番組、日曜美術館「ふたりのキャパ」を見た。
伝説的な戦場カメラマン、ロバート・キャパをテーマにした番組である。
戦場で射殺された瞬間を撮影したとされる有名な写真、「崩れ落ちる兵士」をめぐる「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚」という傑作ドキュメンタリーをNHKスペシャルとして1ヶ月前に放映している。
アンドレ・フリードマンの写真家名として知られているロバート・キャパ。この写真家名は、当初、恋人の女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ)とアンドレがふたりで創作した架空の写真家名であった。ゲルダもアンドレと同じ、ロバート・キャパという名前で写真を投稿していた。
つまり、キャパを名のる写真家はふたりいた、という事実は、2月に放映された「運命の一枚」の中でもすでに番組内で紹介されていた。
素晴らしい出来映えのNHKスペシャルに引き続き放映されるので、「ふたりのキャパ」について、さらに突っ込んだ解説や分析が見られるかと思って視聴したが、残念ながら期待はずれ。
「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚」はNHKスペシャル、「ふたりのキャパ」は日曜美術館。番組の位置づけや放映内容は自ずと異なるといえば、それまでである。
しかし、<「崩れ落ちる兵士」は実際の戦場で撮影されたものではない>。しかも、この有名な写真を撮影したのは<アンドレではなく、ゲルダである>というNHKスペシャルの推理内容に、一切ふれていないのはいかがなものか。
ゲスト解説者は数人いるが、キャパの足跡をかなり詳細に研究している作家・沢木耕太郎が含まれていないのも不可解である。
日曜美術館は、「ふたりのキャパ」の写真を芸術作品として紹介すればこと足りるというわけであろうか。
NHKのセクショナリズムや、お役所的な体質がほの見えるようで残念であった。
紹介されている写真はNHKスペシャルとだぶるものも多いが、目新しいものも含まれている。
ロバート・キャパ 演説するトロツキー
演説するトロツキー
例えば、トロツキーの写真。ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマンのカメラマンとしてのデビュー作のようである。トロツキーは、ロシアの革命家。団塊世代にとっては、なつかしい名前のひとつ。レーニンと並ぶ革命の功績者のひとりである。ユダヤ系のロシア人。
以下の写真は、NHKスペシャルでも紹介されていたもの。
ゲルダ・タロー
ゲルダ・タロー(キャパ=アンドレ撮影)
もうひとりのロバート・キャパ=ゲルダ・タロー。兵士の後ろに位置している女性。ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマン撮影。
ドイツ兵との間に生まれた赤ん坊を抱いて家へ帰る女性
ドイツ兵との間に生まれた赤ん坊を抱いて家へ帰る女性
第二次世界大戦で、ドイツ軍に占領されていたパリが解放された直後の写真。赤子を抱いた女性の頭は短く刈り取られているように見える。周辺には群衆が取り巻き、あざ笑っている人々も多い。
弱い立場の人間を集団でいじめて虐げる、という意味ではファシズムと共通する群衆心理の残酷さが見事にとらえられた写真である。ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマン撮影。




2013年2月7日木曜日

ノンフィクションTV番組の傑作、NHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚」

写真に関わる、素晴らしいテレビ番組を見た。戦場カメラマンとして知られる、ロバート・キャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」をめぐるノンフィクションである。
NHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚~"戦場"写真 最大の謎に挑む~」。番組名は少し長いが、一級の作品である。
ロバート・キャパ 崩れ落ちる兵士
ロバート・キャパ 崩れ落ちる兵士
スペイン内戦のさなか、銃弾によって身体を撃ち抜かれた兵士の「死の瞬間」を捉えたとされる「崩れ落ちる兵士」。この写真と同じときに撮影したと思われる、一連のプリント写真43枚を分析した結果、思いがけない「真実」が浮かび上がってくる。
撮影した現地を訪ね試し撮りした結果や、現地関係者の取材、プリント写真の分析を元にして、推理ドキュメントと形容するにふさわしい見事な推論が展開される。
作家、沢木耕太郎とプロジェクトチームが推察する仮説は、以下1)3)のとおり。

1)「崩れ落ちる兵士」は、実際の戦闘現場ではなく訓練のシーンを撮影したものである。

同じときに撮影された一連のプリント写真。兵士たちのライフル銃の銃身元を見ると、レバーが実弾が装填されていない位置にある。また、撮影された年月日には、現地がまだ戦場になっていなかった。
つまり、実際の戦場で撮影したのではなく、訓練や演習をしている兵士たちを撮影した写真であることが明らかである。

2)ロバート・キャパとは誰か?当初、ふたりの恋人同士の写真家名であり、後に男ひとりの名称となった。

もっと、驚くべき「真実」も推察されている。しかし、その前にロバート・キャパとは誰か、という問題にふれておかなければならない。
ロバート・キャパは、一般的にはアンドレ・フリードマン(1910年生/1937年没)の写真家名として知られている。
アンドレ・フリードマンとゲルダ・タロー
ゲルダ・タローとアンドレ・フリードマン

しかし、ネット百科事典ウィキペディア「ゲルダ・タロー」によれば、当初は、恋人の女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ、1910年生/1937年没)とアンドレ・フリードマンふたりで共有する写真家名として創作されたものであった。
ちなみに、ゲルダたちは日本からフランスへ遊学していた画家の岡田太郎と交流があったらしくタローの名はそれにちなんで名付けられたようだ。
ふたりが、「ロバート・キャパ」という名を使って報道写真の撮影と売り込みをはじめたのは、1936年春。同年7月のスペイン内戦勃発と共に従軍し、9月に「崩れ落ちる兵士」を撮影した。
その後、タローが写真家として自立し、男性のフリードマンが「キャパ」の名前を使い続けたと記載されている。

3)「崩れ落ちる兵士」を撮影したのは、アンドレ・フリードマンではなく恋人のゲルダ・タローである。

「兵士」の直前に撮影されたと思われる一枚の写真を手がかりにして、もうひとつの、もっと驚くべき「真実」が浮かび上がる。
有名な「兵士」の写真を撮影したのはアンドレではなく、恋人の女性ゲルダ・タローであると推察されるのだ。
「兵士」に関連した一連のプリント写真の中には、アンドレ・フリードマンと恋人ゲルダ・タローの写真が入り交じっている。
使ったカメラはアンドレ・フリードマンがライカ、ゲルダはローライフレックスである。ネガサイズはライカ横3:縦2、ローライは6×6サイズの1:1。
「兵士」はプリント時トリミングされていて横長になっているが、ライカではなくローライで撮影されたと推察される。プリントと現地での試し撮りを比較対照しながら進められるこの辺りの推理過程は、実証的で説得力がある。
ゲルダ・タローは、1937年スペイン内戦の取材撮影中に命を落としている。写真誌ライフに「兵士」の写真が掲載され、ロバート・キャパの名が世界的な脚光をあびる直前の出来事である。
番組の中で紹介されている写真をみても、チカラのある写真家だったようである。

4)実際の戦闘現場で撮影されたものでない、とキャパが告白しなかったのはなぜか。

ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマンは、ハンガリーで生まれたユダヤ人である。
1936年のスペイン内戦は、第二次世界大戦の前哨戦である。造反した軍部はドイツやイタリアのファシストが支援し、人民戦線政府は各国の義勇兵が支援した。雑誌ライフで紹介されて脚光をあびたこともあり、写真「崩れ落ちる兵士」は、ピカソの絵画ゲルニカと並んで反ファシズム闘争のシンボル的存在となっていた。
政治的・社会的な時代状況の中で、沈黙を守らざるを得なかったのではないか。

5)恋人ゲルダが亡くなった後も、アンドレがロバート・キャパの名を使い続けたのはなぜか。

自分で撮影した写真ではないのに、写真「兵士」をアンドレ・フリードマンがロバート・キャパの名で発表した理由は容易である。1936年の撮影当時、恋人の女性ゲルダとアンドレふたりで共通の写真家名を名のっていたからだ。
では、恋人ゲルダが写真家として自立し、戦場で亡くなった後も、アンドレがロバート・キャパの名を使い続けたのはなぜか。
写真家名として圧倒的な知名度を有していたから、だけではないと思う。恋人であり、写真家としての同士的な絆を結んだ戦友への愛惜と敬愛の念もひときわ深かったはずだ。
1944年にはノルマンディー上陸作戦に同行した戦場写真などは、みごとな出来映えである。
ノルマンディ上陸作戦
ロバート・キャパ ノルマンディ上陸作戦

撮影したのが誰かわからないが、TV番組の中に挿入された一枚の写真が忘れがたい。戦乱で画面手前の方へ避難する住民たちの集団と逆に、奥の戦場へ向かって肩を寄せ合いながら歩くアンドレとゲルダの後ろ姿がひときわ印象的である。
颯爽と前を歩くゲルダ、その直後に従うアンドレの姿は、ふたりの関係を象徴しているようで微笑ましい。
戦場へ向かうアンドレとゲルダ ロバート・キャパ
戦場へ向かうアンドレとゲルダ(後ろ姿のふたり)
素晴らしい作品を制作した作家・沢木耕太郎とNHKの制作スタッフ(撮影・菅井禎亮、映像技術・眞舩毅、映像デザイン・竹下裕章、CG制作・河合一成、小林和彦、VFX制作・高口英史、ディレクター・国分拓、制作統括・伊藤純)に拍手を贈りたい。
<追記>
ブログに推理の結論まで記すのはどうかと躊躇し迷ったけれど、結局、番組の内容をあえて文章にした「兵士」に関連した一連のプリント写真から、1)や3)という結論を推理する論証のプロセス自体がスリリングであり面白い番組なのだ。
優れた一級品のドキュメンタリーであり、再放送される可能性が高い。その際は、少しでも多くの方にみてほしいと思う。



2013年1月31日木曜日

大阪国際女子マラソン、健闘したが福士加代子はゴール間近で追い抜かれて2位

1月27日は、第32回大阪国際女子マラソンを見学。ときどき粉雪が舞う、寒い一日だった。ランナーにとっては、体温が上昇せず、いい気候といえるかも知れない。

長居陸上競技場で、スタートの光景をまず撮影。走行するランナーを追いかけて競技場の外へ出て、我孫子筋へ移動。さらに地下鉄に乗って「淀屋橋」へ。「淀屋橋」から折り返し地点の「なんば」へ移動し、レース途中の走行風景を撮影。「なんば」から再び長居陸上競技場へ戻りゴールシーンを撮影した。
大阪国際女子マラソン2013
スタート風景
大阪国際女子マラソン2013
第一コーナーを回る選手たち
タチアナ・ガメラシュミルコ(ウクライナ)が2時間23分58秒で初優勝。前回2位、ロンドン五輪5位の選手である。日本の有力選手のひとり、福士加代子はゴール間近までトップを走っていたが、陸上競技場へ入る手前で優勝した選手に追い抜かれてしまい、残念ながら2位。
大阪国際女子マラソン2013
優勝したタチアナ・ガメラシュミルコ
大阪国際女子マラソン2013
健闘して2位でゴールした福士加代子
大阪国際女子マラソンは、福士加代子が初マラソンで惨敗したレースである。30km付近まで、福士が後続を大きく突き放し独走していたがスタミナ切れを起こして失速。十数人の選手に次々と追い抜かれ、フラフラの状況。もうろうとしながらも走り続け、競技場に入って何回も転倒してしまったシーンをTVで見ていた記憶がある。前年も終盤に失速して9位に終わっており、あまり相性のいいコースとは言えない。
福士加代子としてはトラウマを解消し、雪辱したいという強い意志で今回のレースに挑んだと思われる。その意味で、今回は大健闘であり、勝たしてやりたかったレースではある。
長居陸上競技場の大型スクリーンでも走行風景が映されていたが、タチアナに追い抜かれるシーンでは観衆から大きなため息が漏れていたのが印象的である。
若手の渡辺裕子が3位。ママさん選手の小崎まりが4位。日本選手が活躍したレースである。
タチアナの優勝記録2時間23分58秒は、100mの記録に換算すると20.47秒。5km換算で約17分。
陸上競技選手ではない一般人の走行タイムは、100m13〜15秒くらいかと思う。42.195kmという長距離を100m・20秒で走行するのはビックリするほどのスピードである。
ちなみに、裸足の無名ランナーが優勝して話題となった1960年のローマオリンピック。エチオピアのアベベ・ビキラが出した、当時の世界最高記録が2時間15分16秒2である。