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2013年3月27日水曜日

ハトを飛ばしに行ってくる、故郷のひとびとに愛された彫刻家・高橋英吉

31才の若さで夭折してしまった、ひとりの彫刻家に関するTV番組を見た。 
NHK日曜美術館「故郷の海を彫った男 石巻の彫刻家・高橋英吉」。東日本大震災に関連した、心にしみる良質なドキュメンタリー番組のひとつである。

高橋英吉(1911-1942)についての知識はまったくなかったが、番組でいくつかの作品を鑑賞。優れた一級の彫刻家だと思う。
彫刻家 高橋英吉
高橋英吉と作品「潮音」
昔も、現在も、そして将来も。彫刻家などの芸術家稼業で生活して行くのは、容易ではない。彫刻家・高橋英吉の幸せは、ふるさとのひとびとに敬愛されてきた芸術家であること。宮城県美術館で行われた企画展の来館者たちは、口々に、高橋英吉とその作品を石巻のまちの誇りと語っている。
石巻は宮城県で仙台に次いで二番目に人口の多い都市。景勝の地・松島にもほど近い。世界でも有数の漁場を間近にした、海のまちである。 
若い新婚時代の思い出として奥さんが語っている。
生活費に困ると、英吉は「ハトを飛ばしに行ってくる」といって、ときたま帰郷したそうである。
ハトを飛ばす、つまり彫刻作品を売ってくるという意味らしい。ユーモアを解するおおらかな人柄を感じさせる言い草である。
生活している東京では、東京美術学校(現・東京芸術大学)をでたばかりの若い彫刻家の作品は買い手がない。しかし、ふるさと石巻には英吉の作品を購入して支援してくれるひとびとがいた。
ハトを飛ばす=作品を購入してもらうと、1ヶ月くらいは生活できたようだ。
高橋英吉の実家は回船問屋であり、大きな缶詰工場を経営していたらしい。友人・知人に裕福な階層のひとびとが多かったと思われる。
例えば、「母子像」は幼いきょうだいのいる家庭の玄関にかざられていた。子供の頭がなでられて少しすり減っているのが微笑ましい。
「少女像」という作品は、旅館の看板娘として飾られていたらしい。生活の糧となった小さな作品たちは、美術館や博物館のケースの中でこぎれいに陳列されるのではなく、生活の場におかれて親しまれてきたのである。 
高橋英吉 少女像
少女像
彫刻家 高橋英吉 母子像
母子像

潮音
黒潮閑日
代表作、海の三部作「黒潮閑日」「潮音」「漁師像」は、いずれも漁師の姿をテーマにして彫っている。英吉にとって、故郷・石巻への深い愛着を示す作品である。
英吉の主要作品が展示されていた石巻文化センターは、東日本大震災に襲われ大きな被害を受けたが、海の三部作は無事救出された。 
三部作の中では、「潮音」が最も印象的。海の潮風にふかれながら、目をとじてまっすぐに立つ木像は、円空の仏像を思わせるようなノミの彫り跡が美しい。その姿は、被災者への鎮魂の思いを胸に、黙祷しているようにも感じられる。 
英吉が東京美術学校を中退し、南氷洋へ向かう捕鯨船に乗り込んで漁師をしたときに目にした光景を彫刻した作品が「黒潮閑日」。スケッチ帖に、漁の合間に仲間のひげを剃る姿のドローイングが残されている。ふたりの男の形づくるフォルムがきわめて造形的である。
「漁師像」は、黒光りしたつややかな肌が美しい。海で働く男たちの姿は、幼い頃から見慣れた原風景であったはずである。 
海の三部作はいずれも、どこか仏像を思わせるような静謐な崇高さを感じさせる。
高橋英吉は仏像も彫っており、母校の図書館やお寺に作品が残っている。
高橋英吉 阿弥陀如来尊像
阿弥陀如来尊像
不動明王像
中でも慈恩寺の阿弥陀如来尊像は、きれいな仏さんである。
住職によれば、お寺も津波に襲われたが尊像の手前で津波が止まったという。すこし細面の美形である。母親のような優しさをたたえた表情が印象的である。 
遺作となった手のひらに収まるような小さな不動明王像と、それを刻んだ手作りの彫刻刀も忘れがたい。戦死した英吉が輸送船の中で流木に彫った作品が、妻の元に届けられたものである。英吉が、戦友たちにも敬愛されていた証と思われるエピソードである。合掌。 
■ラジオ石巻社長のブログ/高橋英吉さん生誕百周年父娘展に思う
 http://radio764-aizawa.seesaa.net/article/147003387.html 
■海の彫刻家 高橋英吉
 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/91010.html
追記)
高橋英吉の企画展が、2012年9月29日から2013年4月14日まで宮城県美術館で開催されていた。
ひとつ残念なことがある。県立美術館なので、かなり高額な費用で建築された建物のはずである。にもかかわらず、優れた作品を展示するスペースとしては、あまりにも貧弱な空間である。彫刻に比較して天井高が低すぎる。形状も四角いオフィスのようなかたちである。
ミロのビーナスのような展示スペースを希望する、とはいわないけれど、展示する空間の形状や壁・天井・床材などにもうひと工夫あっていいと思う。

2013年3月10日日曜日

東大寺のお水取り、二月堂修二会のお松明を拝観

奈良・東大寺のお水取り、二月堂修二会のお松明を拝観してきた。奈良時代の752年以来、1250年以上に渡って毎年行われてきた祭事である。

東大寺といえば大仏が有名であるが、「お水取り」は春の訪れを告げる行事として関西では知られている。3月12日深夜(13日の午前1時半頃)に、「お水取り」という儀式が行われる。このため、12日に行われる祭事と思っていた。12日は大変な人出のようなので、これまで敬遠してきた。しかし、この法会・修二会の本行は3月1日から14日まで2週間にわたって行われている。行を勤める練行衆の道明かりとして、大きな松明に火がともされる光景は12日以外でも拝観できると知り、3月6日・7日の両日、見学にでかけた。
3月6日は、竹の松明に火を点して屋根付き参道の階段をあがる光景と、松明が回廊を駆け抜ける様子をお堂の下の境内から拝観。
東大寺二月堂修二会
参道階段と回廊の松明
東大寺二月堂修二会
回廊を駆け抜ける松明
翌7日は二月堂のお堂の内部から、回廊を松明が走り抜ける光景を間近に見ることができた。
東大寺二月堂修二会
回廊を駆け抜ける松明
東大寺二月堂修二会
回廊を駆け抜ける松明
今回もキャノンのEOS Kiss X4で撮影。動画の撮影は、まずは問題なく行えた。しかし、写真の撮影は残念ながら失敗。
フラッシュ撮影は禁止されている。夜間で、しかも三脚が使えない。露出優先モードのAVでは、手ぶれする。
ISOを高く設定してシャッター速度優先のTVでチャレンジした。1/100くらいで撮影したが、連続撮影モードにしているのに連写が上手くいかない。後になって分かったことだが、「長秒時露光のノイズ軽減」を設定していた。シャッターを切った後、露光時間と同じだけノイズの軽減処置に時間が必要だったことが原因らしい。
順調に撮影できた動画から、静止画写真を切り出すことにした。従来は動画を静止させてキャプチャーしたり、MACのiMovieを使って写真を切り出していたが、結構手間ひまがかかる。
カメラに付属しているMAC用の画像処理アプリケーション、ImageBlowserを使ってみることにした。これが結構使えて、便利である。作業手順は「編集>動画から静止画を取り出す>動画を選択>全てのフレームを取り出す」。全てのフレームが選択されるので、いったん「全てクリア」。取り出された静止画フレームの中から、希望のカットを選択して保存する。これで、OK!
結構手間ひまがかかていた従来の方法から比べると、ずいぶんラクでありスピードアップできる。





2013年3月4日月曜日

NHK日曜美術館「ふたりのキャパ」。残念ながら、ちょっと期待はずれ

NHKのテレビ番組、日曜美術館「ふたりのキャパ」を見た。
伝説的な戦場カメラマン、ロバート・キャパをテーマにした番組である。
戦場で射殺された瞬間を撮影したとされる有名な写真、「崩れ落ちる兵士」をめぐる「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚」という傑作ドキュメンタリーをNHKスペシャルとして1ヶ月前に放映している。
アンドレ・フリードマンの写真家名として知られているロバート・キャパ。この写真家名は、当初、恋人の女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ)とアンドレがふたりで創作した架空の写真家名であった。ゲルダもアンドレと同じ、ロバート・キャパという名前で写真を投稿していた。
つまり、キャパを名のる写真家はふたりいた、という事実は、2月に放映された「運命の一枚」の中でもすでに番組内で紹介されていた。
素晴らしい出来映えのNHKスペシャルに引き続き放映されるので、「ふたりのキャパ」について、さらに突っ込んだ解説や分析が見られるかと思って視聴したが、残念ながら期待はずれ。
「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚」はNHKスペシャル、「ふたりのキャパ」は日曜美術館。番組の位置づけや放映内容は自ずと異なるといえば、それまでである。
しかし、<「崩れ落ちる兵士」は実際の戦場で撮影されたものではない>。しかも、この有名な写真を撮影したのは<アンドレではなく、ゲルダである>というNHKスペシャルの推理内容に、一切ふれていないのはいかがなものか。
ゲスト解説者は数人いるが、キャパの足跡をかなり詳細に研究している作家・沢木耕太郎が含まれていないのも不可解である。
日曜美術館は、「ふたりのキャパ」の写真を芸術作品として紹介すればこと足りるというわけであろうか。
NHKのセクショナリズムや、お役所的な体質がほの見えるようで残念であった。
紹介されている写真はNHKスペシャルとだぶるものも多いが、目新しいものも含まれている。
ロバート・キャパ 演説するトロツキー
演説するトロツキー
例えば、トロツキーの写真。ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマンのカメラマンとしてのデビュー作のようである。トロツキーは、ロシアの革命家。団塊世代にとっては、なつかしい名前のひとつ。レーニンと並ぶ革命の功績者のひとりである。ユダヤ系のロシア人。
以下の写真は、NHKスペシャルでも紹介されていたもの。
ゲルダ・タロー
ゲルダ・タロー(キャパ=アンドレ撮影)
もうひとりのロバート・キャパ=ゲルダ・タロー。兵士の後ろに位置している女性。ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマン撮影。
ドイツ兵との間に生まれた赤ん坊を抱いて家へ帰る女性
ドイツ兵との間に生まれた赤ん坊を抱いて家へ帰る女性
第二次世界大戦で、ドイツ軍に占領されていたパリが解放された直後の写真。赤子を抱いた女性の頭は短く刈り取られているように見える。周辺には群衆が取り巻き、あざ笑っている人々も多い。
弱い立場の人間を集団でいじめて虐げる、という意味ではファシズムと共通する群衆心理の残酷さが見事にとらえられた写真である。ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマン撮影。




2013年2月7日木曜日

ノンフィクションTV番組の傑作、NHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚」

写真に関わる、素晴らしいテレビ番組を見た。戦場カメラマンとして知られる、ロバート・キャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」をめぐるノンフィクションである。
NHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚~"戦場"写真 最大の謎に挑む~」。番組名は少し長いが、一級の作品である。
ロバート・キャパ 崩れ落ちる兵士
ロバート・キャパ 崩れ落ちる兵士
スペイン内戦のさなか、銃弾によって身体を撃ち抜かれた兵士の「死の瞬間」を捉えたとされる「崩れ落ちる兵士」。この写真と同じときに撮影したと思われる、一連のプリント写真43枚を分析した結果、思いがけない「真実」が浮かび上がってくる。
撮影した現地を訪ね試し撮りした結果や、現地関係者の取材、プリント写真の分析を元にして、推理ドキュメントと形容するにふさわしい見事な推論が展開される。
作家、沢木耕太郎とプロジェクトチームが推察する仮説は、以下1)3)のとおり。

1)「崩れ落ちる兵士」は、実際の戦闘現場ではなく訓練のシーンを撮影したものである。

同じときに撮影された一連のプリント写真。兵士たちのライフル銃の銃身元を見ると、レバーが実弾が装填されていない位置にある。また、撮影された年月日には、現地がまだ戦場になっていなかった。
つまり、実際の戦場で撮影したのではなく、訓練や演習をしている兵士たちを撮影した写真であることが明らかである。

2)ロバート・キャパとは誰か?当初、ふたりの恋人同士の写真家名であり、後に男ひとりの名称となった。

もっと、驚くべき「真実」も推察されている。しかし、その前にロバート・キャパとは誰か、という問題にふれておかなければならない。
ロバート・キャパは、一般的にはアンドレ・フリードマン(1910年生/1937年没)の写真家名として知られている。
アンドレ・フリードマンとゲルダ・タロー
ゲルダ・タローとアンドレ・フリードマン

しかし、ネット百科事典ウィキペディア「ゲルダ・タロー」によれば、当初は、恋人の女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ、1910年生/1937年没)とアンドレ・フリードマンふたりで共有する写真家名として創作されたものであった。
ちなみに、ゲルダたちは日本からフランスへ遊学していた画家の岡田太郎と交流があったらしくタローの名はそれにちなんで名付けられたようだ。
ふたりが、「ロバート・キャパ」という名を使って報道写真の撮影と売り込みをはじめたのは、1936年春。同年7月のスペイン内戦勃発と共に従軍し、9月に「崩れ落ちる兵士」を撮影した。
その後、タローが写真家として自立し、男性のフリードマンが「キャパ」の名前を使い続けたと記載されている。

3)「崩れ落ちる兵士」を撮影したのは、アンドレ・フリードマンではなく恋人のゲルダ・タローである。

「兵士」の直前に撮影されたと思われる一枚の写真を手がかりにして、もうひとつの、もっと驚くべき「真実」が浮かび上がる。
有名な「兵士」の写真を撮影したのはアンドレではなく、恋人の女性ゲルダ・タローであると推察されるのだ。
「兵士」に関連した一連のプリント写真の中には、アンドレ・フリードマンと恋人ゲルダ・タローの写真が入り交じっている。
使ったカメラはアンドレ・フリードマンがライカ、ゲルダはローライフレックスである。ネガサイズはライカ横3:縦2、ローライは6×6サイズの1:1。
「兵士」はプリント時トリミングされていて横長になっているが、ライカではなくローライで撮影されたと推察される。プリントと現地での試し撮りを比較対照しながら進められるこの辺りの推理過程は、実証的で説得力がある。
ゲルダ・タローは、1937年スペイン内戦の取材撮影中に命を落としている。写真誌ライフに「兵士」の写真が掲載され、ロバート・キャパの名が世界的な脚光をあびる直前の出来事である。
番組の中で紹介されている写真をみても、チカラのある写真家だったようである。

4)実際の戦闘現場で撮影されたものでない、とキャパが告白しなかったのはなぜか。

ロバート・キャパ=アンドレ・フリードマンは、ハンガリーで生まれたユダヤ人である。
1936年のスペイン内戦は、第二次世界大戦の前哨戦である。造反した軍部はドイツやイタリアのファシストが支援し、人民戦線政府は各国の義勇兵が支援した。雑誌ライフで紹介されて脚光をあびたこともあり、写真「崩れ落ちる兵士」は、ピカソの絵画ゲルニカと並んで反ファシズム闘争のシンボル的存在となっていた。
政治的・社会的な時代状況の中で、沈黙を守らざるを得なかったのではないか。

5)恋人ゲルダが亡くなった後も、アンドレがロバート・キャパの名を使い続けたのはなぜか。

自分で撮影した写真ではないのに、写真「兵士」をアンドレ・フリードマンがロバート・キャパの名で発表した理由は容易である。1936年の撮影当時、恋人の女性ゲルダとアンドレふたりで共通の写真家名を名のっていたからだ。
では、恋人ゲルダが写真家として自立し、戦場で亡くなった後も、アンドレがロバート・キャパの名を使い続けたのはなぜか。
写真家名として圧倒的な知名度を有していたから、だけではないと思う。恋人であり、写真家としての同士的な絆を結んだ戦友への愛惜と敬愛の念もひときわ深かったはずだ。
1944年にはノルマンディー上陸作戦に同行した戦場写真などは、みごとな出来映えである。
ノルマンディ上陸作戦
ロバート・キャパ ノルマンディ上陸作戦

撮影したのが誰かわからないが、TV番組の中に挿入された一枚の写真が忘れがたい。戦乱で画面手前の方へ避難する住民たちの集団と逆に、奥の戦場へ向かって肩を寄せ合いながら歩くアンドレとゲルダの後ろ姿がひときわ印象的である。
颯爽と前を歩くゲルダ、その直後に従うアンドレの姿は、ふたりの関係を象徴しているようで微笑ましい。
戦場へ向かうアンドレとゲルダ ロバート・キャパ
戦場へ向かうアンドレとゲルダ(後ろ姿のふたり)
素晴らしい作品を制作した作家・沢木耕太郎とNHKの制作スタッフ(撮影・菅井禎亮、映像技術・眞舩毅、映像デザイン・竹下裕章、CG制作・河合一成、小林和彦、VFX制作・高口英史、ディレクター・国分拓、制作統括・伊藤純)に拍手を贈りたい。
<追記>
ブログに推理の結論まで記すのはどうかと躊躇し迷ったけれど、結局、番組の内容をあえて文章にした「兵士」に関連した一連のプリント写真から、1)や3)という結論を推理する論証のプロセス自体がスリリングであり面白い番組なのだ。
優れた一級品のドキュメンタリーであり、再放送される可能性が高い。その際は、少しでも多くの方にみてほしいと思う。



2013年1月31日木曜日

大阪国際女子マラソン、健闘したが福士加代子はゴール間近で追い抜かれて2位

1月27日は、第32回大阪国際女子マラソンを見学。ときどき粉雪が舞う、寒い一日だった。ランナーにとっては、体温が上昇せず、いい気候といえるかも知れない。

長居陸上競技場で、スタートの光景をまず撮影。走行するランナーを追いかけて競技場の外へ出て、我孫子筋へ移動。さらに地下鉄に乗って「淀屋橋」へ。「淀屋橋」から折り返し地点の「なんば」へ移動し、レース途中の走行風景を撮影。「なんば」から再び長居陸上競技場へ戻りゴールシーンを撮影した。
大阪国際女子マラソン2013
スタート風景
大阪国際女子マラソン2013
第一コーナーを回る選手たち
タチアナ・ガメラシュミルコ(ウクライナ)が2時間23分58秒で初優勝。前回2位、ロンドン五輪5位の選手である。日本の有力選手のひとり、福士加代子はゴール間近までトップを走っていたが、陸上競技場へ入る手前で優勝した選手に追い抜かれてしまい、残念ながら2位。
大阪国際女子マラソン2013
優勝したタチアナ・ガメラシュミルコ
大阪国際女子マラソン2013
健闘して2位でゴールした福士加代子
大阪国際女子マラソンは、福士加代子が初マラソンで惨敗したレースである。30km付近まで、福士が後続を大きく突き放し独走していたがスタミナ切れを起こして失速。十数人の選手に次々と追い抜かれ、フラフラの状況。もうろうとしながらも走り続け、競技場に入って何回も転倒してしまったシーンをTVで見ていた記憶がある。前年も終盤に失速して9位に終わっており、あまり相性のいいコースとは言えない。
福士加代子としてはトラウマを解消し、雪辱したいという強い意志で今回のレースに挑んだと思われる。その意味で、今回は大健闘であり、勝たしてやりたかったレースではある。
長居陸上競技場の大型スクリーンでも走行風景が映されていたが、タチアナに追い抜かれるシーンでは観衆から大きなため息が漏れていたのが印象的である。
若手の渡辺裕子が3位。ママさん選手の小崎まりが4位。日本選手が活躍したレースである。
タチアナの優勝記録2時間23分58秒は、100mの記録に換算すると20.47秒。5km換算で約17分。
陸上競技選手ではない一般人の走行タイムは、100m13〜15秒くらいかと思う。42.195kmという長距離を100m・20秒で走行するのはビックリするほどのスピードである。
ちなみに、裸足の無名ランナーが優勝して話題となった1960年のローマオリンピック。エチオピアのアベベ・ビキラが出した、当時の世界最高記録が2時間15分16秒2である。

2013年1月24日木曜日

男の手料理:ヒイラギ(ギンタ)の煮付け

近所の魚屋さんでギンタをみかけたので、購入した。うまい魚である。
ウロコもないので料理は簡単。煮付けにして、食することにした。
平たい楕円形、銀色に輝く5〜6センチくらいの小さな魚である。
小さい魚なので食べるのが少し面倒ではあるが、白身はヒラメやタイのハラミのような食感。ほどよくアブラがのっていて、美味しい。
ハラにはキモがあり、これが絶品である。トロッとした食感、ほんのりとした甘みの中にほどよい苦みが心地よい。
スーパーではあまり売っていないけれど、近所の魚屋さんでみかけたら一度手料理してみてほしい。
■料理方法
1)ヒイラギ(ギンタ)を流水で水洗いする。
水洗いしたヒイラギ(ギンタ)

2)水、砂糖、酒、醤油で煮汁をつくり、火にかける。
3)薬味をつくる。梅干し2〜3個、白ネギの薄切り、ショウガの千切り。
4)煮汁が煮立ってきたら、ヒイラギ(ギンタ)と薬味を投入する。
ヒイラギ(ギンタ)を強火で煮込む

5)ガスを強火から中火にして、アクをとりながら5〜6分ほど煮込む。
ヒイラギ(ギンタ)を中火で煮込む

6)煮汁にみりんと酢を加えて、少し煮込み、火を消し出来上がり。
盛りつけしたヒイラギ(ギンタ)

<追記>
ネットで「魚 ギンタ」を検索したら、どうやら標準和名「ヒイラギ」という魚らしい。
◎ヒイラギ(wikipedia)
wikipediaによれば、標準和名「ヒイラギ」は下記のようにさまざまな地方名で呼ばれている。
ギチ(東京)、ギラ(千葉)、ジンダ(ジンダベラとも)、ネコゴロシ(ネコマタギとも)(静岡)、ゼンメ(愛知)、ネコナカセ(浜名湖)、ギンタ(和歌山)、ネラギ(大阪)、ダイチョオ(兵庫)、ネコクワズ(淡路島)、エノハ(鳥取)、ギギ、ゲッケ(岡山)、ギンギン、ギンガー(広島)、ニイラギ(愛媛)、ニロギ(高知)、トンマ、トンバ(福岡)、ヒイラギ(長崎)、シイノフタ(熊本)
おいしい魚であるのに、猫も食わない=ネコゴロシ、ネコマタギ、ネコクワズ=といった別名があるのが面白い。今や高級魚のマグロも、かつて同じような評価を受けていたようである。

2012年12月23日日曜日

YouTubeのマイチャンネルを削除してしまった?!

ちょっと恥ずかしい話であるが、YouTubeのマイチャンネルを、誤って削除してしまった。
Googleのソーシャルネットワークサービス、Google+の登録項目を無効にしようとしたところ、情けないことにYouTubeのマイチャンネルもキレイさっぱり消えてしまった。泣くに泣けない事態である。
マイチャンネルを、新たに作成しなければならなくなった。
少なくとも、このブログからリンクしている動画だけでもビデオを投稿し直そうと思うが、時間がどれだけかかることやら。
自業自得とはいえ、ちょっとショックな事件である。

追記)

投稿動画は消えてなかった!「非公開」に切り替わっていた

ビデオを投稿し直そうとして、YouTubeにアクセス。マイチャンネルそのものは生きていることがわかった。ただし、Blogから個別の動画にアクセスしようとするとリンク切れで再生できない。リンク切れになっているので、公開済みの動画はすべて削除されてしまっていると思っていた。
しかし、そうではなかった。
動画管理のページを見てみると、以前投稿した動画が残っているのが分かった。
マイチャンネルの動画が、「公開」から「非公開」にすべて切り替わっていたのである。「非公開」から「公開」に変更することでBlogからのリンク切れが解消される。
投稿済み動画をひとつひとつ「非公開」から「公開」に設定し直す手間はかかるけれど、新たに投稿し直すことに比較すれば、ずいぶん楽である。
一括設定の方法もあるかもしれないけれど、発見できないのでコツコツ設定し直すことにする。
冷や汗をかいたが、まずはひと安心である。



2012年12月17日月曜日

泉州の奇祭とよばれる祭礼、石津太神社の火渡り神事「やっさいほっさい」

今年最後のお祭り、石津太(いわつた)神社の火渡り神事「やっさいほっさい」を見学してきた。

太古の昔、戎(えびす)さんが浜に漂着した時に、漁師たちが篝火を焚いて迎えた故事に因む火祭である。
江戸時代から、毎年、12月14日に行われてきたと伝承される。戎(えびす)さんは、七福神のひとつ。七福神の絵図では、釣竿を持ち鯛を釣り上げた姿で描かれることが多い。 
石津太神社の創建は、おそろしく古い。社伝によれば、紀元「前」469年と伝承されている。『古事記』『日本書紀』に伝えられる第5代天皇、孝昭天皇の時代である。神社の石柱には、我が国最古のえびす神社と記されている。 
参道の広場には、2〜3mの高さに祈願用の薪が格子状に積み重ねられている。夜、8時。照明が消えて真っ暗になり、神火が薪に点火される。
上半身は裸、白いサラシの胴巻きとパッチのいでたちの男たちが、「やっさいほっさい」という掛声をかけながら点火された薪の周辺を回る。
かなり勢いよく火が燃え上がり、火の粉がはじけて飛んでくる。祭事の進行状況を説明する女性アナウンサーが「今年はとくに、勢いよく火が燃え上がるようです。危険ですからご注意ください」と警告するほどである。
格子状の薪が、燃え上がり徐々に崩れてくると、竹で平坦にならす火伏神事が行われる。火渡りの下準備である。
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
勢いよく燃え上がる祈願用の薪
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
火伏せ神事
点火から約1時間たった、9時。いよいよ、火渡り神事が始まる。
戎(えびす)神に仮装した神人を、3人の若者が担いで本殿から参道の広場へやってくる。両足を前ひとりがかつぎ、後ろふたりが背中と両腕を支える。
東の鳥居側から、西の本殿へ向かって熾き火の上を一気に駆け抜ける。
熾き火を駆け抜けた直後に、足を担いだ前のひとりが転んでしまうハプニングがあったが、大事にはいたらなかったようでひと安心。
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
えびす神に扮した神人を担いで火渡り
火渡りの途中で転倒
本殿からもう一度広場へ戻ってきて、西から東へ熾き火を渡る。さらに引き返して東から西へ火渡りを行い、引き続いて神社のまわりを「やっさいほっさい」と掛声をかけながら周回する神事に向かう。 
戎(えびす)神たちの火渡り神事が終わったあとは、一般の参拝客も火渡り神事に参加できる。熾き火の上を、次々とひとびとが駆け抜ける。
若者だけではなく、幼児を肩車してかついだ父親や、若い女性、小学生の子供たちも喜々として火渡りを行っている。
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
熾き火の上を火渡りする一般の参拝者
石津太神社 火渡り神事 やっさいほっさい
熾き火の上を火渡りする少年
まだ火のついた熾き火の上を駆け抜けるのは怖いと思うけれど、平気なようである。わざわざ足摺して、熾き火から炎を燃え上がらせている元気なひとたちもいる。 泉州の奇祭というモノ珍しさか、外人さんたちも見学に来ているあたりが面白い。 
■Wikipedia石津太神社 
火渡り神事「やっさいほっさい」が行われる石津太神社は、大阪府堺市の南部。石津川が大阪湾へそそぐ河口に近いエリア。
この地域は、大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)や上石津ミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)など巨大古墳が集中する百舌鳥古墳群の南西部に位置する。
古代には石津川上流に須恵器産地があり、河口は瀬戸内海から大阪湾を経て古墳築造用の石が運ばれた港であった。紀元前数百年に創設された、我が国最古のえびす神社であるとしても不思議ではない土地柄である。 
境内には戎(えびす)神が腰掛したとされる石も鎮座している。現在は、小規模な神社であるが、最盛期はかなり大規模な社領を有していたらしい。朝廷や豊臣秀吉などの崇敬の厚い神社であったようである。 
■Wikipediaえびす 

2012年12月8日土曜日

デジカメで撮影した写真をフチなしプリントすると、元データと異なる:その理由

交換レンズのトラブルを解消していただいたDPEのお店に感謝

近所の写真プリントDPEのお店に、感謝しなければならない。愛用しているカメラの交換レンズEF-S18-135mmのトラブル=保護用のレンズが交換レンズの本体に食い込んでしまって外れなくなっていたのを、取り外してもらった。
購入した家電量販店にもちこめば、まずはメーカーに修理依頼となるのが相場。ダメもとで依頼してみようと思い、近所のカメラ屋さん=DPEショップを訪ねた。幸いにも、快く引き受け直していただいたのである。
しかも、修理の手数料を聞いたところ、「いらない」との返答。 
修理代金ナシでは申し訳ないと思い、とりあえず近くの和菓子屋さんで気持ばかりの菓子折りを買ってお礼。後日、あらためて、撮影した写真のプリントを依頼することにした。 
アナログカメラの時代には、撮影した子供の写真などをよくプリントしていたが、デジタルカメラを持つようになってからはプリントすることが全然なくなった。何十年ぶりかのプリント依頼である。

プリントした写真と、元データを見比べて気づいたこと 

ハガキの2倍サイズの2K版(152×205mm)への引き延ばしプリントを、10枚ほどオーダーした。
フチなしでプリントされた写真を自宅に持ち帰り見てみると、違和感がある。何かオカシイ感じなのだ。 
写真元データとプリントを見比べてみて、原因が分かった。プリントした写真は、元のデータと比較して左右がカットされている。
写真の元データ 縦横比率2:3
写真の元データ 縦横比率2:3
プリント写真 縦横比率3:4
プリント写真 縦横比率3:4

フチなしでプリントされている印画紙の縦横比率は、約3:4。プリントの元になるEOS Kiss X4の写真データの縦横比率は、2:3である。縦(天地)を優先してフチなしプリントすると、横(左右)がカットされることになる。 

よく使われる写真用紙 L版は縦横3:4、一眼レフ画像は縦横2:3
プリントすると横(左右)がカットされる

私の持っているデジカメIXY DIGITAL 900ISなど、コンパクトカメラの場合は一般的に縦横比率は3:4。 
同じく、一眼レフデジカメの場合は、縦横比率はアナログ35mm一眼レフカメラに準じる2:3。これに対して、写真プリント用に用いられる主な用紙サイズと縦横比率は下記のとおり。
◎L版(89×127mm)                   →約3:4 
◎2L版(127×178mm)    →約3:4 
◎2K版(152×205mm)    →約3:4 
◎六切版(203×254mm)    →約4:5 
◎ワイド六切版(203×305mm) →約2:3 
◎四切版(254×305mm)         →約5:6 
◎ワイド四切版(254×366mm) →約5:7 
用紙サイズの縦横比率をみると分かることがある。撮影した画像データサイズと、縦横比率が異なるのだ。
プリント用紙は、一眼レフ画像データ(2:3)に比較して横が短い。 
このため、35mm一眼レフデジタルカメラで撮影したデータを、DPEショップに依頼してフチなし写真プリントする場合は要注意。
左右が大幅にカットされることを覚悟しなければならない。 
唯一例外は、用紙をワイド六切版にする場合。ワイド六切版であれば、用紙とデータとの比率が2:3でほぼ同じ。プリントする際にカットされるトリミング部分が、必要最低限に納められる。 
データを優先したい大版プリントの場合は、天地の余白フチありで依頼するか、あるいは用紙サイズに応じた縦横比率にあらかじめトリミングしたデータを用意しておく必要がある。

コンパクトデジカメ画像は縦横3:4(1.33)だが、用紙Lはやや横長の約3:4(1.42)
プリントすると縦(天地)がカットされる

コンパクトデジタルカメラのプリントの場合でも、要注意である。コンパクトカメラの写真画像データ横÷縦数値は1.33。これに対して印画紙の横÷縦数値は、L版=1.42、2L版1.40。約4:3の比率とはいえ、データに比較して横が長い。フチなしプリントの場合、画像データの長い横(左右)を優先して縦(天地)がカットされてしまう。
L版・2L版でプリントする場合、一眼レフは横(左右)、コンパクトカメラは縦(天地)がカットされてしまうということになる。
そういえば、アナログの時代でも、フィルムとプリントでは縦横比率が異なるという注意事項があったことを思い出した。 
写真の画像元データ縦横比率とプリント用紙の縦横比率が異なる、というのはプロの常識ではあろう。しかし、私たち素人は知らない方が圧倒的多数のはずである。 
35mmのロールフィルムが普及する以前は、中判・大判カメラで撮影した1枚1枚のフィルムを現像して手焼きしていた。空白や余分な部分はカットして、フチなし写真にしていたのであろう。 撮影した画像データとプリント用紙縦横比率の違いは、印画紙が大量のプリントを想定していないアナログカメラ時代の遺産であろうか。

追記)はがき用紙やエプソン推奨のKGサイズは、一眼レフ同様の縦横比率2:3
プリントしても上手く納まる

よく使われる印刷用紙の中で、はがき用紙が上記の表でもれてしまった。
はがき用紙であれば、一眼レフと同様に縦横比率がほぼ2:3であり、カットされる部分が必要最低限に止まる。元のデータとほぼ同じ画像がプリントされる。
用紙サイズ一覧.comによれば、エプソンが推奨しているKGサイズも縦横比率が約2:3。一眼レフで撮影した写真のプリントに好適である。KG版は元々コダックが採用したサイズで、欧米では標準的なプリント用紙のようだ。はがきとほぼ同じで、縦横が数ミリ程度大きいサイズである。
◎KG版(102×152mm)    →約2:3
◎はがき(100×148mm)    →約2:3
■用紙サイズ一覧.com
http://www.size-info.com/photo-paper/

2012年12月2日日曜日

京都の紅葉名所を再訪:東福寺、嵯峨野竹林の道・常寂光寺、嵐山

今年の紅葉も、そろそろ見納めの季節である。 
テレビの紅葉特集で東福寺と嵯峨野・竹林の道を紹介しているのを見た家のカミさんが、行ってみたいという。
11月29日、ふたりで京都の紅葉名所を再訪問した。

朝早く家をでようとしたところ、思わぬトラブル。最近、動画モードの撮影にもトライアルしているカメラEOS Kiss X4に問題発生。レンズカバーが、斜めに食い込んでいて外れなくなっている。 
あわてて弄っていると、レンズカバーは何とか外れた。しかし、カバーをはずすためにねじってしまったのか。防護レンズが割れてしまい、外れなくなってしまった。電車の時間に間に合わないので、替えの交換レンズを装着して出かけることにした。 
問題発生のレンズはEF-S18-135mm。35mm判換算で29mmから216mm相当のズームレンズ。広角・標準・望遠の3機能を備えた便利なレンズなので愛用している。やむ終えず装着してでかけたのは望遠系のズームレンズEF-S55-250mm。35mm判換算で88mmから400mm相当である。手ぶれが心配であるが、望遠系のズームレンズでどんな絵がとれるか試してみることにした。 

1)東福寺:臥雲橋から望む通天橋、通天橋から望む渓谷・洗玉澗の見事な紅葉 

まず最初は、京都の紅葉名所の代表的な存在=東福寺。JR京都駅からひと駅という便利な立地もあり、前回訪れたときと同様に大変な混雑ぶりである。北門から入り、参道の橋廊・臥雲橋に向かう。臥雲橋からは、左手目の前に樹々の紅葉が広がり、奥に屋根付き橋廊・通天橋を望むことができる。
東福寺 通天橋
通天橋
東福寺 臥雲橋
臥雲橋
 東福寺の境内には渓谷が東西に流れており、渓谷・洗玉澗のまわりが庭園になっている。渓谷に架けられた回廊の一部が屋根付きの橋廊・臥雲橋と臥雲橋である。庭園の回廊から望む紅葉は見事であったが、すでに盛りをすぎた感があるのが残念だった。 
■東福寺 

2)嵯峨野・嵐山:竹林の道を走る人力車、踏切ではトロッコ列車に遭遇 

昨年、趣ゆたかな竹林の散策道にたまたま遭遇したのは、常寂光寺から天龍寺へ向かう帰り道であった。
カミさんが見てみたいという第一希望も竹林の道である。地図を事前に調べたところ、JR嵯峨嵐山駅の南口から向かう方が便利なようである。 
JR嵯峨嵐山駅の南口は天龍寺や嵐山渡月橋へのアクセス経路になっているので、道路沿いには土産物屋や飲食店がたくさん並んでいる。
昨年利用した北口から常寂光寺へ向かう経路は閑静な住宅街を通る印象が強いが、南口からの経路は観光地らしいにぎやかな雰囲気である。JR駅南口には、嵯峨野観光鉄道のトロッコ嵯峨駅も隣接している。 
ひとりで撮影旅行の際はおにぎりを頬張ることが多いが、カミさんとふたり連れなので昼食は少し贅沢。
行列ができている「嵯峨豆腐・稲」という店で、生湯葉付き湯豆腐定食を食べることにした。少し待たされたけれど、まずはごちそうさま。 
食事を終えて、鶴屋寿という喫茶店北角から西へ入り竹林の散策道へ向かう。 
後ろから、数台の人力車が追い抜いて行く。
嵯峨野 竹林の道を走る人力車
竹林の道を走る人力車
嵯峨野 竹林の道 踏切を走るトロッコ列車
トロッコ列車
縁結びの効験あらたかな野宮神社の前を少し北へ進むと踏切。1時間に1本程度しか走らないトロッコ列車が通る光景を、運良く目にすることができた。
トロッコ列車は、旧山陰線の旧線を使って嵯峨野観光鉄道が走らせている観光用のディーゼル車である。赤、黒、オレンジに彩られた車体が目を引く。 
■嵯峨野観光鉄道 
竹林の道の散策を楽しむのであれば、野宮神社手前の三叉路を北ではなく、西へ向かう方がおすすめ。天龍寺の北門から大河内山荘へ向かう小径の方が、風情豊かな竹林の光景を楽しむことができる。 

3)常寂光寺:仁王門から本堂へ続く参道まわりの鮮やかな紅葉 

竹林の道から常寂光寺へ向かう。常寂光寺は、安土桃山時代、1595年に日真上人(「真」の文字は「示す編に真」)が開設したお寺である。平安末期〜鎌倉初期の歌人・藤原定家の小倉山荘跡と伝承される。
日真上人は、角倉了以をはじめ京都町衆の帰依者が多かった日蓮宗の高僧。歌人としても知られていた風流人だったようで、ひなびた佇まいの好感がもてるお寺である。東福寺ほどではないが、こちらも多くの参拝客でにぎわっている。
常寂光寺 仁王門
仁王門
常寂光寺 仁王門わきの参道
仁王門脇の参道
仁王門から本堂へ続く石段や、鐘楼の方へ上がる参道まわりの紅葉が見事である。樹々の根元に生える苔の緑と、紅葉や黄葉の対比が色鮮やか。
見頃としては、盛りを少し過ぎた感じだったのが残念である。 
ちなみに、常寂光寺のHP(下記アドレス)はFLASHを使ったかなり高度なつくりである。アクセスしてみてほしい。 
■常寂光寺 
帰りは、大河内山荘の方から亀山地区の嵐山公園へ下り、桂川沿いに渡月橋へ向かう。嵐山の紅葉も見学できたが、ふたりとも歩き疲れて少々ばてぎみ。 
何十年ぶりかに訪れた嵐山であるが、20〜30歳代の若い頃に来た嵐山は、もっとひなびた印象であった。土産物屋や飲食店の外観も、昔は和風の少々くたびれた感じが多かった。現在は、当世風のモダンな意匠の建物が目白押しという印象である。 渡月橋から北へ、JR駅方面へ続く道沿いのにぎわいはさすが京都という感じである。

2012年11月28日水曜日

11月25日、大阪マラソン2012を観戦

11月25日に開催された、大阪マラソンを見学にでかけた。
約3万人の市民ランナーが参加する大型イベントである。主催者によれば、フルマラソン参加者28,343人のうち27,112人が完走。完走率は95.7%。これは、かなり素晴らしい数字だと思う。

スタート地点、大阪府庁前は招待客のみ観戦可。一般客は立ち入り禁止のため、府庁の南交差点で撮影スタンバイした。フルマラソンは9時スタート。
8時45分、車椅子の部が一般のフルマラソンに先駆けてスタートした。目の前を、かなりの猛スピードで駆け抜ける。車椅子の部、1位の山本浩之選手のタイムは1時間28分16秒。フルマラソン1位、セルオド・バトオチル選手の記録2時間11分54秒より約40分も早い。腕2本で車椅子の車輪を回転させることを考えると、ハードな競技である。
撮影にいいポジションを確保したはずであったが、そう都合良くはいかない。前にひとが割り込んだり、歩道で見ている観客が突然肩車をしてひとをかつぎあげたり。アングルを急遽変更しなければならないことが、しばしば。自分もまた、無意識のうちに他人の撮影を邪魔したりしているかも知れないのでお互い様か。
市内中心部、御堂筋へ移動して撮影しようとしたが、コース道路の大阪城側にいたため苦労した。約3万人ものランナーが走行するため、道路の横断はできない。道路をまたぐ陸橋型の横断歩道橋は閉鎖。あるだろうと思っていた地下道もない。結局、森之宮まで歩く。
大阪マラソン
大阪マラソン(御堂筋)
大阪マラソン
大阪マラソン(森之宮)

森之宮から本町へ移動して、御堂筋の走行風景を撮影。10時過ぎに、地下鉄本町駅から電車でゴール地点の南港インテックス大阪へ向かう。
残念ながら、車椅子の部1位選手のゴールシーンには間に合わなかったけれど、上位選手が次々とゴールインする姿は見応えがあった。女子1位の土田和歌子選手と思われる姿も確認できた。男子選手と競り合って、リードを保って駆け抜けていった。
大阪マラソン 車椅子マラソン
車椅子マラソン(南港)右:土田選手
大阪マラソン 車椅子マラソン
車椅子マラソン(南港)
車椅子マラソンの選手たちが、次々とゴールする中を、マラソン1位の選手が駆け込んでくる。モンゴルのセルオド・バトオチル選手。40km以上の距離を走ってきたとは思えないほどの猛スピードで、あっという間にゴールへ向かう。
2位中村泰之選手は、あごが上がって少し苦しそうに駆け抜ける。3位佐藤敦之選手は、比較的軽快にゴール前でサングラスをはずしながら走り抜けた。
大阪マラソン
大阪マラソン(シモン選手)
大阪マラソン
大阪マラソン(ゴール)
女子の1位はルーマニアのリディア・シモン選手。シモン選手は、昨年も1位だった。大阪府庁の南側道路で、スタート前のウォーミングアップしている姿を見かけた。外国人にしては、小柄な選手である。1973年生まれなので39才ではあるが、走行する姿は若々しい。2位ジュリア・モンビ選手。3位に日本人の猪野祐貴選手が入って来る。色の白い大柄な選手である。大きなストライドで、元気よく疾走する姿が清々しい。
■大阪マラソン2012


2012年11月20日火曜日

奈良の紅葉名所を歩く:談山神社

数年前、長谷寺の紅葉見物をしたときに、次は訪ねてみたいと思っていたのが談山神社。 奈良県、桜井市。大化の改新で活躍した藤原鎌足ゆかりの神社である。ちなみに、拝観窓口で渡されたリーフレットによれば、談山の読みは「たんざん」であった。「だんざん」とばかり思っていたが、勘違いである。中旬から下旬に見学に行こうと考えていたが、神社のホームページを見ると11月17日が例大祭。舞楽が奉納されると記載されている。天気予報は雨であったが、雨の紅葉も一興と考えて参拝にでかけることにした。

11月17日、年に一度の談山神社例大祭・奉納舞楽を拝観 

目当てのひとつ、例大祭の開始は10時半からとなっていたが、電車の乗り継ぎに手違いもあって到着したのは10時45分頃。 本堂で例大祭が始まったところと聞いて、急いで本堂へ向かう。幸い、舞楽は11時半頃から奉納されたので、拝殿の廊下から拝観できた。
談山神社 舞楽
雨よけのテントが張られた舞楽の舞台
談山神社 舞楽
例大祭で奉納された舞楽
あいにくの雨模様のため、舞楽の石舞台にはテントが張られており、拝殿からは本殿がほとんど見渡せない。本殿の建物を背景に舞楽が奉納されている絵がとれるはずであるが、テントが目隠しになる。写真撮影の環境としては、あまりよくない。 拝殿の座敷には、藤原一族の人々や信者が大勢座っている。
大化の改新当時の鎌足公を、再現しているのだろうか。赤い衣装を身につけた演者は、剣を持って舞う。座敷前列の人々もビデオや写真を撮影しているが、絵柄の構図としてはあまりよくないのが残念。 
正午頃に例大祭がお開きになった後は、紅葉見物。一時小雨がちらついたけれど、幸い曇り空。境内の見事な紅葉を、ゆっくりと見物できた。 

手前左右に紅葉、左奥にそびえるイチョウ大木を背にした十三重塔の優美な姿 

中でも、十三重塔周辺の紅葉が見応え十分。本殿から見ると、十三重塔の左右手前に紅葉、左奥権殿の背後にそびえるイチョウの大木の黄葉があざやか。
塔の檜皮(ひわだ)葺きの黒っぽい渋い茶、塗り壁の白、柱や軒下の垂木などの赤に、樹々の葉の緑・赤・黄が点描のような濃淡を示しながら彩りを添える。風にふかれて揺れる、樹々の葉が優美である。
十三重塔
左・十三重塔、奥・権殿
談山神社は、飛鳥時代に建立された古い神社である。
十三重塔は、678年に鎌足公追悼のために息子が建立したもののようだ。701年に、鎌足公を祀る神社本殿が建設されている。明治の神仏分離令の以前は、神仏融合の寺院兼神社であった。
十三重塔の西には、権殿(儀式殿)。建物西のイチョウ大木の下には、奥の山から流れる疎水があり小さな滝になっている。
権殿の階段を下りると、けまりの庭。庭に面して、神廟拝所と総社拝殿が配置されている。
談山神社 福禄寿
総社拝殿・福禄寿
権殿前の小さな滝
総社拝殿に祀られている大きな木像、高さ3m位の福禄寿が面白い。福禄寿は弁天さん、大黒さん、恵比寿さんなどと並ぶ七福神のひとつ。
ノミで削り出された木像であるが、独特の風貌が味わい深い。円空の仏と同じように、荒削りな感じが好ましい。開運出世、福の神にふさわしい親しみ深い表情である。
七福神は、ヒンドゥー教・仏教・道教と日本の土着信仰がいりまじって形成されたようであり、和を持って尊しとなす日本らしい神仏習合の神さんらしい。
境内の西端まで紅葉を見物して、再び十三重塔の方へ引き返し本殿の前に帰った2時過ぎ、とうとう雨が降ってきた。拝殿床下の回廊部分で、雨宿り。小雨がやがて、かなりきつい本降りの雨に。帰り支度をして、山門から本殿へ続く長い急坂になった石の参道階段を降りる。急な下がり上がりになった山道をたどって、バス停へ。雨天の予報にも関わらず、例大祭の奉納舞楽と、紅葉見物を楽しむことができて幸い。十三重塔まわりの光景が記憶に残る、いい一日であった。
■談山神社

<追記> 帰宅後、ネットで調べてみた。総社拝殿の木像・福禄寿は、大阪芸術大学教授・斎部哲夫さんの作品のようである。比較的最近に作られた木像のようなので驚いた。ほのぼのとした福相、好感がもてる作品である。