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2014年11月10日月曜日

富士通ワープロから始まりMacへ、懐かしいパソコンの思い出

1)最初は富士通のワープロOASYS 30MS
最初に購入したパソコンは富士通のOASYS 30MSであった。1989年、価格は15〜6万円位であったがボーナスで思い切って購入した。かな漢字変換に「親指シフト」という独自の規格を採用していたワープロ専用機である。
富士通のワープロOASYS 30MS
購入した当時は、パソコンやワープロは会社に数台程度しか装備されていない。書類作成のために、社外から派遣スタッフに毎日きてもらって作業を代行してもらうという時代である。企画部門の同僚がマーケティング資料の作成などに活用していた。
手書きで広告コピーを制作していた私としては、制作趣意書や企画書などにも活用できるため興味関心はあった。しかし、利用できる社内スタッフはごく限られており、超多忙。教えてもらうのも気が引けて、遠慮していた。
作成だとか更新とか、無愛想なワープロ初期画面でわけが分からない。マニュアルを参照しながら操作するとなると、自分専用に1台購入するほかない。と、いうわけで思い切って購入した。
自宅で、気兼ねなく機械を扱えるため、意外と容易にワープロ操作できるようになったのはラッキーであった。
ワープロ専用機とはいえ、表計算やお絵描きのような機能もついており、実質的にはパソコンである。このため、パソコンに対する臆病さや無用な警戒感が解消されたのが大きい。

2)Macを初めて買ったのはPerforma6210

1995年の年末である。会社でプロ用のハイエンド機にふれる機会はあったが、50万円以上の価格。フォントや印刷用標準アプリケーションを装備すると、100万円程度必要。自宅で使用するパソコンとしては高価で、とても手がでなかった。
最初のMacintosh Performa6210
ところが、クリスマスセールのため、CANONのコンパクトなプリンタ付きで25万円の特価となっていた。当時のマックとしては廉価だったので、思い切って購入した。
ハードディスク容量は800MB。CPUのクロック数75MHz。1GBに満たないこのHD容量を余裕があり、クロック数を速いと自慢していた時代である。モニターはSONYの15インチ。モニタ左右天地のラインがすっきりとした直線なのも気に入った。
当時はまだ、インターネットも普及しはじめの段階であったが、ネット接続も簡単という売り文句であったと記憶している。
ディスプレイと本体が一体型のPerfomaも販売されていたが、ずんぐりむっくりのかたちが気に入らなかった。

3)Macを使用、まず感じたのは愛嬌のよさ

起動時にはボ〜ンというけっこうデカイ音がなり、可愛い顔のイラストが表示される。エラーを起こしたときには、爆弾のイラストがでる。
結構ひんぱんにフリーズして爆弾がでるが、ニクメナイ感じなのである。無愛想なワープロ初期画面やパソコンの起動画面とは大違いである。
マニュアルを読んで解決したが、電源Offのアイコンが隠されているのにも最初はとまどった。
正月に起動したときに、新年おめでとうのアイコンが出て立ち上がったのには驚いた。粋なパソコンだなと、すっかり好きになってしまった。
年賀状を印刷しようとして、フォントを変更するとモニタ画面から郵便マークが突如として消えてしまったのにも驚いた。文字化け問題である。
当時のパソコンは、NECのPCシリーズがまだ強かった時代。他社メーカーのパソコンも、ビジネス用の事務機として無愛想なイメージであり、Macとは大違いであった。
Macを購入した1995年は、世界的にヒットしたWindows95が発売された年でもある。以降、Windowsパソコンのシェアが急速に高まる

4)モニターに表示されるフォントのキレイさにも驚いた

パソコンやワープロは、文字幅が一定の等幅フォントが当時の標準。しかし、Macの初期設定フォントOSAKAや装備したフォントは文字によって幅の異なるプロポーショナルフォントが標準。字間のつめ具合がスマートで、フォントのかたちも洗練された美しさである。
写植機メーカー・モリサワのフォントもゴチック&明朝2書体標準装備されていた。ちなみにモリサワは大阪が本社である。
半角のかなカナという見た目にも不細工な文字は使っていない。
フォントがキレイなのは、創業者のスチーブ・ジョブスが学生時代にカリグラフィー(西洋書道)を勉強していたことも関係していたようだ。
当時の印刷で主力となっていたのは写植文字によるオフセット印刷。商業印刷用の精彩なモリサワフォントは購入する必要があった。プリンタにインストールするフォントは1ファミリーあたり5万円くらいして高価であった。
当時、写植のNo.1メーカは写研であり、モリサワは第2位メーカーであった。MACによるDTP印刷の急速な普及により、フォントメーカーとしてはモリサワが逆転した。
しかし、パソコンを使ったDTP印刷の急速な普及により、文字組版を行う写植自体が印刷のプロセスにおいて不要となってしまった。写植マーケットが消滅してしまったのは皮肉な結果である。音楽分野でのSONYウオークマンとiPodの関係を想起させるできごとである。

5)以来、何台かMACを買い替えて現在のiMacへ

廉価型のパーフォーマから、中古ではあるがPowerMacintosh8100を購入できたときの喜びも忘れがたい。
ジョブズが復帰して開発。大ヒットしたおむすび型の初代カラフルiMacは、ちょっとオモチャぽくて興味がわかなかった。iMacG4もデザインが、いまいちで見送り。
初代のカラフルiMac
しかし、薄型液晶モニターの一体型iMacG5が登場したときには驚いた。ホレボレするほどのかっこいいデザインである。価格的にもリーズナブルであったので、古いPowerMacintoshから2004年に買い替え。机の上の大きなモニタと足下のタワーPCがなくなり、いっぺんにすっきりしたことがなつかしい。
動画撮影を趣味にするようになり、SD対応ビデオカメラから精細なHDハイビジョン動画を撮影できるカメラに買い替えした。
PowerPCのiMacG5ではハイビジョン動画を扱えないので、現在のインテルCPUのiMAC8,1に2008年乗り換えた。
8,1は数年愛用しているが、そろそろパンクの懸念もある。最新の機種への買い替えも検討課題であるが、最新の機種に買い替えすると、愛用しているアプリケーションiWEB・iDVDが使えない。
当面は、動画データをこまめにバックアップしてパンクするまで使い続ける予定である。

2014年11月9日日曜日

HP制作が簡単にできるiWEB。新しいiMacに買い替えると使えない。

ホームページを久しぶりに更新した。プロバイザから割り当てられたドメインに、データをCyberduckを使ってアップしている。
データを上書きする際、フォルダの階層が食い違ってしまいアップデートには苦労した。
このHPは、iMACに付属しているアプリケーションiWEBを利用して制作したものである。
iWebを使って制作したホームページ
見た目それなりのデザインのHPが素人でも作成できるので、アップル社のシステム開発者には感謝している。
YouTubeにアップした動画をHPに貼付けるのも容易。iPhotoを使ってパソコンに保存した写真をHPにあしらうのも簡単である。
1995年、最初に購入したパソコンがMacintosh Performa6210。大昔からのMACユーザーとしては、さすがアップルと少々自慢である。
撮影した動画はiMovieに読み込んで編集。YouTubeに投稿したり、iTUNEの音楽をメニュー画面やスライドショーのBGMにつけてDVDに焼いている。
iDVDを使って制作したDVDのタイトルと動画インデックス
iDVDというアプリを使うと、何本かの動画をそれらしく編集してDVDに焼くことができる。自宅や友人宅のテレビでも鑑賞できるので、結構楽しむことができる。
残念なのは、傑作といってもいいアプリケーションiWEB・iDVDが、数年前からすでに製造中止。「廃盤」になっていること。
現在愛用している機種はiMAC8,1である。2008年に購入した。OSはX 10.5.8。故障もせず現役であるが、いつパンクするか心配でもある。
動画データを扱うにはHD容量300GBではチカラ不足なので外付けHDにバックアップしている。
OSX 10.5.8の場合、最新のアプリケーションが利用できないといった問題もある。例えば、ブラウザFireFox/Safari/Chromeの最新版は利用できない。
最新の機種への買い替えも検討課題であるが、大きな問題がある。最新の機種に買い替えすると、愛用しているアプリケーションiWEB・iDVDが使えない。アップル社にしてみれば、ホームページやDVDは時代遅れ=過去の遺物と見切っているのであろう。
iDVDで愛用している機能がある。数本のMovieを組み込んでDVDに焼くときに、表紙&目次になるイントロMovieを簡単に編集できる「テーマ」である。
DVDのイントロ部分を編集するこの機能は、最新のiMovieに組み込まれているようである。
MACを買い替えする場合は外付けのDVDドライブを接続すれば、動画編集と焼く作業は問題なく行えるかも知れない。
iWEBについては、別のアプリに乗り換える他ないようである。
現在のHPデータの移行はムツカしいと思うので、新規にイチから作らなければならない。その気力が残っているか、ちょっと自信がない。

2014年10月20日月曜日

和泉だんじり祭、急な坂道を上る聖神社への宮入りと神輿渡御

和泉市の信太・幸地区、信太連合のだんじり祭は、聖神社への宮入りと神輿渡御が見どころである。今年はじめて見学にでかけた。

熊野街道に近い山裾の住宅街にある一の鳥居から山上の神社へ、標高差約50m・約400mの急な長い坂道を上ってだんじりが宮入りする。
曳き手にとってはひどく疲れを感じる、関西の方言でいうとかなりシンドイ宮入りである。
各地のだんじり祭の中でも、もっとも過酷で厳しい宮入りかも知れない。
曳き手たちはだんじりを曳いて、急な坂道を掛声とともに上がって行く。だんじりは4トン近い重さ。厳しく辛い曳行である。
神社へ上がる坂道の途中では、白い上下の衣装に身を包んだひとびとが数十人出迎え。曳き手たちを拍手で迎え、激励する。
身体的に過酷でハードな分、坂道を上り切って山上神社の二の鳥居が見えてくるときの喜びも大きいはずだ。
聖神社へ宮入りするだんじり
山上の神社へ向かって、長い急な坂道を上って宮入りするだんじり

もうひとつの特長は、神輿渡御である。
当番町のひとびとが聖神社から神輿を担ぎ出し、禅宗のお寺・蔭涼寺へ参詣した後、御旅所を経て氏子の町内へ神輿渡御を行う。
坂の途中でだんじりを迎えたひとびとは、神輿を担ぐ当番町・上代町のひとたちである。
聖神社の境内、宮入りしただんじりの前を神輿が渡御する

信太連合のだんじりは、上町・上代町・尾井町・王子町・葛の葉町・幸町・太町・富秋町・宮本町の9町。神輿を担ぐ今年の当番町は、上代町である。
神輿当番町を除く8町のだんじりが見守る中を、白い上下衣装のひとびとが神輿を担ぎ境内を練り歩いた後、宮出する。だんじりと神輿が神社境内でいっしょに並ぶ渡御の光景は、他地区のだんじり祭ではあまり見かけない光景である。
各町のだんじりは宮出の後、鶴山台団地の中でやり回し。坂を下ってふもとの各町へ帰り、午後はだんじり曳行を休止する。
宮入りが行われる本宮の日は、氏子の町々を神輿が渡御するからである。
このため、和泉市、信太連合のだんじり祭は、宵宮・本宮・後宮の3日間にわたって行われる。
聖神社は和泉五社のひとつ。創建は白鳳3年(675年)、あるいはもっと古く神武天皇東征の際とされるほどで、かなり古い由緒のあるお宮さんである。
豊臣秀頼が造営したとされる本殿は、建て替えられて真新しくなっている。

2014年10月19日日曜日

JR津久野駅前合同宵宮祭。駅前広場を清掃する母子の姿が印象的。

だんじり祭も一段落である。泉州エリアでは、9月は岸和田旧市と春木がメインとなるが、10月は岸和田山手のほか、各地で行われるので見学先の調整がムツカしい。
今年、初めて見学した祭のひとつが、堺だんじり祭のJR津久野駅前合同宵宮祭。

津久野地区7台・八田荘西地区4台、計11台がJR阪和線「津久野」駅前ロータリーに集まり、セレモニーの後、周辺を合同曳行する。
駅前ロータリーに各町から次々とだんじりが集まり、整列して行くありさまは見応えがある。
曳行コースの中では、駅前ロータリーから線路沿いに北へ上がるS字カーブが難所。スピーディに駆け抜けることはなかなかムツカしい。腕の見せ所である。
ロータリーを南東へでてすぐの四つ角も見せ場。各町競ってやり回しに挑むありさまが見どころである。
セレモニーの後、各町だんじりが合同曳行するために出て行った後、駅前ロータリーで放置されたゴミを掃除する女性たちの姿を見かけた。
中にひとり、少年が混じっている。母親と語り合いながら、大きなゴミ袋を手に駆け回って清掃を手伝っている。だんじりの後尾を追いかける幼児が、振り返って清掃する母子の姿を見つめている。
JR津久野駅前合同宵宮祭
駅前ロータリーを清掃する母子と、その姿をみつめるだんじり後尾の幼児


業者に任せるのではなく、だんじりを曳く町のひとびとが自主的に清掃する姿は各地で見かける。
祭の後、道路や広場をすっきりときれいにして、けじめを見事につけている姿が清々しい。
ロータリーを清掃する母子と、その姿をみつめる幼児の姿が印象的である。

2014年10月2日木曜日

宵宮・早朝の曳き出しは、岸和田だんじり祭の「華」。

岸和田だんじり祭・宵宮、早朝6時前から行われる曳き出しを今年も見学してきた。

早起きして、貝源・小門の交差点へ午前5時前に到着。
かんかん場から南海岸和田駅前へつづく本通商店街は、夜中といってよい時間にもかかわらずラッシュアワーのように人びとが行き交っている。
曳き出し前の打ち合わせを終えた各町の役員たちが、着流し姿で年番本部から街路へ出てくる。
献灯台の提灯の明かりに照らされて、北町のだんじりがすでにスタンバイ。やり回しの名所・かんかん場のすぐ近くとあって見物客もひときわ多い。
昨年は、かんかん場で宵宮一番のやり回しを撮影した。今年はやり回し前の曳き出しの様子を撮影したいと考えて、浜七町のだんじりが並ぶ疎開道へ向かう。
かんかん場で一番手としてやり回しを行う大北町のだんじりが、小屋を曳き出されたのが5時5分頃。周辺はまだ暗い。
曳き出しまで少し時間があるので、疎開道へ戻る。だんじりの本場中の本場とあって、通りにはたくさんの人びとが行き交う。
5時15分頃、中北町のだんじりの大屋根には大工方が上っている。
大工方は大屋根を右から左へ、左から右へ跳躍してウォーミングアップ。献灯台の提灯の明かりに照らされた、その姿が美しい。祭りが間もなく始まるという緊張感と喜びにあふれた姿である。
岸和田だんじり祭 宵宮 曳き出し

夜の闇から空が薄明るくなるにつれて、曳き手たちがどんどん集まって来る。
5時45分頃、大北町のだんじりが最初のやり回しをして疎開道へ現れ、かんかん場へ向かう。
待ちかねたように、中北町のだんじりが猛烈なスピードでかんかん場へ疾走する。中北に次いで大手町も歓声をあげて追走。
曳き出しの場合、だんじりが走るスピードは各町共に圧倒的に早い。
浜七町と南町・本町・堺町のだんじりが、疎開道を次々とかんかん場へ駆け抜けるありさまは見応えがある。
宵宮の曳き出しは、岸和田だんじり祭の「華」。
1年間待ちかねた祭の始まりにふさわしい、緊迫感と昂揚感にみちた祭事である。
早朝にもかかわらず、有料観覧席も満席に近い状態。見る方も、その価値を十分心得ている。
岸和田山手から曳き出しを見学に来る人たちのために、今年は臨時バスが運行された。いい試みだと思う。

2014年9月6日土曜日

祭囃子や大工方のカワイイ仕草、だんじり祭は子供たちも主役。

岸和田だんじり祭、いよいよ明日が試験曳き。本番も1週間後に迫った。

祭を前にして、準備をする町の様子を撮影しながら、改めて気がついたことがある。
それは、岸和田だんじり祭は子供たちも主役ということ。 
例えば、だんじり囃子。小・中学生はもちろん、幼稚園の年頃と思われる年齢の幼児でも、鉦・太鼓を巧みに操り演奏する。 
だんじりの太鼓台に上がり鉦・太鼓に子供たちがふれていても、大人たちは叱らず、黙って見守っている。 
ほど良い距離感の接し方は、年季が入っており好感が持てる。
岸和田だんじり祭の子供たち
岸和田だんじり祭の子供たち
子供たちを、町の人々みんなが育てて行く。
一般的にはすっかり廃れてしまったそんな気風が、だんじり祭という祭礼を絆として現在も生きている印象である。
団扇を手にして大工方の真似をする。おもちゃのだんじりを引っ張り曳行する。
肩車をする親の頭上でやり回しを見物したり、だんじりの後ろを追いかける。その、いずれの姿も、ほほ笑ましい。 
祭当日、宮入りするだんじりの大屋根に上っている幼児はちょっと自慢げである。 
台風シーズンと重なるため、だんじり祭は雨に見舞われることも多い。 
降りしきる雨の中をひるまず綱を曳いて走る少年団の子供たちの姿は、健気で神々しい。 
だんじり祭は子供たちも主役である。

2014年8月29日金曜日

祭まで2週間、上町だんじりの丹精こめたツツミ巻き作業を見学

岸和田だんじり祭が近い。岸和田市浜手の旧市&春木地区では9月、岸和田山手地区では10月に行われる。
例年は祭の当日のみにでかけていたが、昨年は試験曳きをはじめて見学。
今年は南町・中之濱町のだんじり修理後の披露曳行も見学して、祭当日だけではなく途中の日々もまた味わい深いことに改めて気づいた。

「岸ぶら」の小学生ブロガー・ケロスケくんの「自転車で駆け巡るだんじり小屋」という面白い記事に誘われて、祭を間近にした町の様子を見学にでかけた。
http://kishibura.jp/blog/kero/2014/08/%e3%81%a0%e3%82%93%e3%81%98%e3%82%8a%e5%b0%8f%e5%b1%8b.html/trackback
お目当ては、ケロスケくんが「昭和4年に作られただんじりなので、木の色が濃い」とコメントした上町のだんじり。上町は、岸城神社への宮入り順がくじ不要の2番と決まっている。
このだんじりは、町が景気のいい頃に作られた傑作である。素材のケヤキは一級品。造作や彫刻も出来がいいと定評があるようだ。
30〜40代くらいの年配のベテラン数人を中心に、青年団の数十人の若者たちがだんじりの曳行準備をする様子を運良く見学できた。江弘毅さんの「だんじり若頭日記」によるとツツミ巻きという作業のようだ。
岸和田 上町だんじり

ツツミ巻きは、前梃子を差し込む舵取り部分の重要な綱(だんじりの前面下部にある8の字を横にしたかたちに結ばれた綱)を編み込んで行く作業である。
木槌で打ったり、ひとが上に乗って踏ん張ったり、青年団が綱をぎゅっと引いたりしながら2時間あまり。入念で綿密に緊縛していく様子はさすがである。
作業の途中、大工方の団扇を手にした小学低学年くらいの少年がだんじりに上がり、ひとりでだんじり囃子を奏でる。最初は手のひらで、ついで大太鼓・小太鼓のバチを持ちあざやかに独演。なかなか見事な演奏である。
地車の調整は何か少し課題が残ったようであるが、綱の緊縛を終えた後は囃子方の青年たちがだんじりに上がり祭囃子の練習開始。笛のパートがいなかったのは残念であったが、だんじり囃子を楽しむことができた。
間近にじっくり彫刻を見学できたのもうれしい。
岸和田 上町だんじりの彫刻

地車の調整に数時間かけて取り組むプロセスをみて、華やかな曳行を支える影の苦労の一端にふれた気がする。祭を見学する方は気楽でいいが、曳行する方は大変である。しかし、また、苦労の多い準備作業を和気あいあいと楽しげに行っているあたりが面白い。

2014年8月22日金曜日

歯科の待ち合い室で「さっちゃんのまほうのて」を読んだ。胸を打たれるいい絵本である。

治療にでかけた歯科の待合室で、待ち時間に絵本「さっちゃんのまほうのて」を読んだ。
たばたせいいち、先天性四肢障害児父母の会、のべあきこ、しざわさよこの共同制作。1985年に偕成社から出版されたロングセラー。味わい深い絵本である。
絵本 さっちゃんのまほうのて

表紙の絵と書名タイトルにひかれて、手に取ってしまった。泣いている女の子の表情からは深い悲しみと激しい怒りが感じられる。子供向きの絵本とは思えない異様な緊張感のある絵である。
成人した子供を持つ、いい年のオヤジが子供の絵本を読む。あまり見栄えの良い姿ではないが、内容にひかれて最後まで読んでしまった。
生まれつき手に障がいをもつ幼稚園児「さっちゃん」の物語である。
絵本 さっちゃんのまほうのて

友達から心ない言葉をかけられて傷つき、泣いて帰った「さっちゃん」。小学生になったらみんなと同じように手に指が生えてくるかと、母に問いかける。
指は生えてこないと真摯に答える母。答えを聞いた「さっちゃん」の悲しみと絶望。母と子の緊迫した対話に胸を打たれる。

絵本「さっちゃんのまほうのて」

園をしばらく休むようになってしまったが、弟が生まれたこと、父や母、友達や幼稚園の先生などに励まされて再び元気になって行く。きっかけのひとつが、産院からの帰り道に父とかわした会話である。
絵本 さっちゃんのまほうのて

さっちゃんと手をつないで歩きながら、語りかける父のことばが素晴らしい。
『それにね さちこ、こうして てをつないで あるいていると とっても ふしぎな ちからが さちこのてから やってきて おとうさんのからだ いっぱいに なるんだ。さちこのては まるで まほうのてだね』と、励ます。
幼い子供と手をつないで歩くひとときは、ちょっと幸せなかけがえのない時間である。つなぐその手がハンディをもっている子供なら、なおさら思いは深い。
さっちゃんと手をつないでいるとき、父は娘をこころから愛おしく感じる。
子供の手のぬくもりから、元気をもらい励まされるのである。
苦難の少なくないはずの娘の人生に、幸多かれと願い、その手助けをしたいと思う父の覚悟が清々しい。
絵本の制作にあたってのいきさつ等は、下記のコメントを参照。
◎野辺明子さん:著者の一人として、絵本「さっちゃんのまほうのて」を語る

2014年8月6日水曜日

岸和田・中之濱町だんじり、大修理後の熱気にあふれたお披露目曳行。

だんじり祭を間近に控えた岸和田で、中之濱町のだんじりが8月3日ひとあし早く曳行した。

大修理しただんじりの、お披露目曳行である。修理を終えただんじりが、岸城神社にお参りして清祓いを受け入魂式。その後、たくさんの観衆に見守られて熱気にあふれた曳行を披露した。
朝6時からの曳行に合わせて早起きして見物に出かけたが、早朝にもかかわらずたくさんのだんじりファンが集まっているのに驚いた。
だんじりの前後、綱の曳き手や後に続くひとびとが多いのも印象深い。だんじり祭の本場ならではの現象だろう。
本番の連合曳きと比較して、曳き手の笑顔が多く、表情が和やかである。曳き綱の前やだんじりの後ろを歩く私服のひとたちの比率が、本番より多いような感じがする。単独のお披露目曳行ならではの特長かも知れない。

中之濱町は、通称「なかんば」。だんじりの本場・岸和田の中でもだんじり魂が最も熱いエリア・浜七町のひとつである。浜七町は小学校区の全町にだんじりがあることで知られている。
中之濱町のだんじりは、先代地車を空襲で焼失させた町民が、日掛けで資金を集め昭和26年に完成させた。
『岸和田だんじり讀本』の著者&編集者・江弘毅さんの下記ブログに、浜七町の祭り気質や中之濱のだんじりが出来上がった経緯について詳しく紹介されている。味わい深い内容なので一読してほしい。
*「日本一だんじりなエディター」江弘毅の甘く危険な日々:「かしみん」のこと
ちなみに、NHK朝ドラ『カーネーション」で小篠三姉妹のひとりジュンコ役を演じた女優・川崎亜沙美さんが中之濱町出身である。
入魂式のため岸城神社へお参りする中之濱町だんじり


だんじりの前部、正面欄干に横綱土俵入りの姿が木彫り像として据えられているのも面白い。江戸時代、城内で行われた相撲大会で町内の力士が優勝したことにちなむらしい。
だんじりを先導する纏や曳き手の法被の背中には、相撲の軍配団扇の中に「天下泰平」の文字が刻まれている。大工方の法被の背中にも「天下泰平」の文字がくっきりと。なかなか粋な、カッコいいデザインである。
入魂式後、お披露目曳行する中之濱町だんじり

市役所横のこなから坂からスタート。岸城神社、カンカン場、船津橋、大手町周辺へ移動。完成から60年以上を経て、数々の思い出を刻んだだんじりが大修理を終えて曳行する姿を撮影した。
隣接する浜七町のだんじりが出迎え祝福する中を「なかんば」のだんじりが曳行するありさまは、部外者の私でも胸の熱くなる思いがする。
8時に曳行終了後、道路に捨てられたゴミや吸い殻を近隣町のひとたちが掃除している光景も印象的であった。


2014年7月30日水曜日

伊勢大神楽の獅子舞と、岸和田だんじり祭をつなぐ赤い糸。

だんじり祭を1ヶ月半後に控えた7月末の岸和田で、思いがけず獅子舞にであった。南町のだんじり修理入魂式後、地元の町付近を曳行する風景を見学した帰りである。場所は、紀州街道・本町まちなみ景観の保全地区。

白い上衣の篠笛奏者、真っ赤な獅子頭、獅子の下半身を覆う紺衣が色鮮やかである。黒っぽく渋い趣がある歴史的な町家建築の家並みに映えて美しい。
岸和田、紀州街道のまちなみ保全地区で獅子舞する伊勢大神楽

町のひとに訪ねてみると、伊勢大神楽の一行らしい。お伊勢参りに出かけられないひとのために神の使いが代わりに参拝、授与された神札を配りに地方の町や村を巡る。獅子舞と曲芸を披露しながら、無病息災や家内安全のお祓いをする神事である。江戸時代から行われており、無形民俗文化財に国から指定されている。
伊勢大神楽が岸和田市内を回檀するきっかけを作ったキーマンは、篠笛奏者・森田玲さんのようである。
森田さんブログの記載によれば、岸城神社での大神楽は平成15年に始まった。「昔はお伊勢さんから獅子舞が来ていたけれど、来なくなって寂しい」という話を何度も耳にしていた氏は、何とかして泉州地域への再訪を復活させたいと思い、岸城神社での「総まわし」を提案。岸城神社の賛同を得て再訪が実現し、市内の町々を巡るようになった。
岸城神社は、岸和田だんじり祭の核となる神社。だんじりが市役所横のこなから坂を駆け上がり、岸和田城のお堀端を巡りながら宮入りする先の神社である。
森田さんは岸和田高校出身、京大卒。岸和田高校は岸和田城のお堀端、岸城神社の隣にある府立高校である。伊勢大神楽との関わりの詳細は、下記ブログ参照。
◎篠笛奏者・森田玲のブログ

小学生くらいの少女の「よろしくお願いします」という声に導かれて、神楽の一行は紀州街道から海側へ路地を入り中町だんじりの前へ向かう。
中町だんじり前で、伊勢大神楽の獅子が舞っていたのにも理由がある。中町在住、だんじりなどの木彫を行う彫り師・河合申仁さんが、獅子頭の面を制作している。面の制作を仲介したのが、上記の森田さんである。詳細は下記ブログ参照。
◎木彫刻「賢申堂」河合申仁のブログ
獅子頭は、みごとな出来映えである。
河合さんの仕事柄、精巧なだんじり彫刻や上だんじりの獅子噛み・鬼熊なども手がけているはずなので出来のいいのは当然か。
岸和田、中町だんじりの前の伊勢大神楽
神事の最後に、子供たちの頭を獅子が噛み、子供が健やかに育つように祈願。だんじりの曳き手の大人たちも、獅子に噛んでもらい苦笑いしている姿が微笑ましい。悪霊払いの安全祈願である。
夏祭りのお囃子やだんじり囃子の源流も、この伊勢大神楽にあるらしい。
伊勢大神楽と、岸和田だんじり祭。ふたつをつなぐ赤い糸は、苦楽を共にするひとびととの絆を愛おしみ、幸多かれと願う思いかも知れない。
たまたま訪れた岸和田で、めったにお目にかかれない伊勢大神楽にであう。ちょっとうれしい一日であった。

2014年6月17日火曜日

身体障がい者陸上の日本選手権、選手たちの素晴らしいアスリート魂

大阪のヤンマースタジアム長居で、6月7日・8日開催された第25回日本身体障がい者陸上競技選手権大会(日本選手権)をはじめて見学。選手たちが真摯に競技へ立ち向かう光景に心をうたれた。
以下、強く印象に残った選手たちである。
■YouTubeマイチャンネル↓↓↓↓↓↓↓


◎山本篤選手
短距離走、走幅跳。義足の選手。初日最終レース、4×100mリレーアンカーの躍動感あふれるフォームによる力走は圧巻。第一走者 多川知希、第二走者 佐藤圭太、第三走者 芦田創、アンカー 山本篤。日本のトップクラスの選手が400mを大会記録の45秒25で走破した。200m走では日本新・アジア新、100m走でも日本新を達成した。スズキ浜松AC所属。
*闘魂_男子4×100m
◎堀越信司選手
視力障がいのT12クラス。1500m・5000m走のランナー。修行僧、あるいは伝説的なマラソン走者・アベベを思わせるような静かで凛然とした表情で、スピード豊かに駆け抜ける姿が印象に残る。NTT西日本所属。
*闘魂_男子5000m
◎藤井美穂選手
走高跳、走幅跳、100m走。背が高く、若く清楚で美しい義足の選手。現代っ子のお嬢さんといった印象である。走高跳では義足をはずして片足で走り、前へ跳び込むスタイルで大会タイ記録。ヘルスエンジェル所属。
*闘魂_走高跳
◎鈴木徹選手
走高跳。すらりとした長身、義足の選手。リズミカルに走る姿、高く飛翔する背面跳びのフォームが美しい。プーマジャパン所属。
*闘魂_走高跳
◎永尾嘉章選手
パラリンピックで活躍。車いすレースのパイオニアと評価される選手である。1963年生まれ51才であるが、若手に負けず100m・200m・400m車いすレースで優勝。健在ぶりを示した。400mは大会タイ記録。アナオリアスリートクラブ所属。
*闘魂_男子400m車いす
◎樋口政幸選手
中長距離の車いすランナー。2日目最終レース、1500mでは猛烈なスピードで独走。山本浩之・廣道純など他の有力選手をしのいで圧勝。初日の800mでも優勝。baristride所属。
*闘魂_男子1500m車いす
◎新田勝士選手
片手が不自由な中長距離ランナー。1500mでは、前日本記録保持者の木村祐樹選手と並んで走り、1周目のバックストレートで一気に抜き去り快勝。日本新記録を更新した。若手のホープ。順天堂大学所属。
*闘魂_男子1500m
◎中野雅之助選手
障がいが重いT31クラスの車いすランナー。手でこぐのではなく、片足のつま先でけりを繰り返して車いすを駆動。背もたれをゴールに向けて背走するスタイルで、100mを完走して大会新記録。年配の選手であるが、ファイティングスピリットが素晴らしい。大阪身障者陸協所属。
*闘魂_男子100m車いす
障がいの重いクラスは出場者が少なく、大会運営の都合で軽いクラスの選手と一緒になってレースを行う。このため大幅に遅れたり、周回遅れになったりする場合もあるが、重いクラスの選手が懸命に競技する姿には胸の熱くなる思いがする。
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身体障がい者陸上競技の日本選手権を見学して、記憶に残るエピソード。200m車いすレースで3〜4才くらいの男の子が「おとうさん、ガンバって〜!」と声をふりあげ応援している。微笑ましく心あたたまる光景である。
*闘魂_男子200m車いす

はじめて見学した記憶に残る大会であったが、残念なことがひとつ。全日本クラスの大会なのに、観客が少なかったこと。選手たちが奮闘している姿を、もっと多くのひとびとに知ってほしいと思う。父親を応援する幼い男の子のように、たくさんの観衆の声援と歓声に包まれながら競技できる日が来ることを心から願いたい。

2014年5月16日金曜日

當麻寺、春の大祭。動く立体曼荼羅、練供養会式を拝観。

5月14日。奈良県の西部、二上山のふもとにある當麻寺(当麻寺)春の大祭、聖衆来迎練供養会式を拝観してきた。

聖衆来迎練供養会式(以下、練供養会式)は、当寺で尼僧となった藤原氏のお姫さま中将姫が聖衆二十五菩薩に導かれて極楽往生する様子を再現。年に一度、1000年以上に渡って行われてきた法会である。
當麻寺・中之坊HP
http://www.taimadera.org/
當麻寺・西南院HP
http://taimadera-sainain.or.jp/
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/聖衆来迎練供養会式
http://ja.wikipedia.org/wiki/中将姫
1時過ぎに寺を訪れ仁王門をくぐる。白鳳時代7世紀に創建されたと伝えられるが、想像以上に規模の大きいお寺である。
屋台が並ぶ境内を歩くと、板敷きの細長い掛橋が見えてくる。幅1m長さ100m、高さはひとの頭くらい。練供養会式の舞台となる来迎橋である。正面に見える本堂・曼荼羅堂と手前の娑婆堂とを結んでいる。
練供養の法会は4時から。待ち時間に中之坊、西南院、本堂を拝観する。
本堂へ続く掛橋・来迎橋
多くの人でにぎわう境内
4時になり、練供養が始まる。僧侶と着物姿のふたりの少女に導かれて中将姫の御輿が、本堂から娑婆堂へ来迎橋を渡って行く。
西の本堂・曼荼羅堂は極楽、東の娑婆堂は現世を象徴している。姉妹であろうか、少女の表情や仕草が愛らしい。
中将姫の御輿と少女
中将姫の御輿を先導する少女
続いて僧侶が、本堂へ入り読経が始まる。男女の稚児さんたちが親たちに手をひかれて橋を渡り、次いで僧侶が歩む。
可愛い稚児さんたち
僧侶の行列
僧侶に次いで聖衆二十五菩薩が、黄金や白塗りの仮面を装って本堂から娑婆堂へ来迎橋の上を列をなして続く。
天女に導かれる二十五菩薩
黄金の仮面をつけた二十五菩薩
足音とともにシテ役の観音菩薩が現れる。仏の座る蓮華台を両手に捧げ、振り上げ振り下ろしながら、身をよじり、相撲の四股を踏むように左右に足を踏み分けながら歩む。次いで、勢至菩薩が白手袋で合掌しながら左右に身をよじり歩み、最後に、天蓋を掲げた普賢菩薩が来迎橋を娑婆堂へ向かう。
蓮華座を手にした観音菩薩
蓮華座に仏はなく、空座
本堂前でしばらく待っていると、シテ役の観音菩薩が再び姿を現す。両手に掲げた蓮華台には中将姫の小さな仏像が据えられている。
観音菩薩の両手に奉じた蓮華台が、行きは空座。帰りは仏像が据えられている有様が、劇的で印象深い。
観音菩薩を先頭にして極楽へ戻る二十五菩薩
中将姫の仏を据えた蓮華座を奉じる観音菩薩
観音に次いで勢至菩薩、天蓋を掲げた普賢菩薩が現れ、娑婆堂での法会を終えた二十五菩薩が次々と極楽へ向かう。
観音菩薩に続く、勢至菩薩・普賢菩薩
次々と極楽へ上る二十五菩薩
二十五菩薩に次いで、稚児さんたちや僧侶の列が続き、最後に中将姫の御輿が本堂へ戻ってくる。
本堂・極楽堂へ戻る僧侶
行列の最後に本堂へ戻る中将姫の御輿
動く立体曼荼羅ともいえるこの練供養会式。寛弘2年(1005)比叡山の恵心僧都・源信が、「中将姫の昔を慕って聖衆来迎の有様を見んがために、二十五菩薩の装束と仏面を作って、寄進したのにはじまる」と伝えられる。源信は「往生要集」を著し、浄土教の基礎を作った高僧である。
農民をはじめ一般のひとびとに極楽往生を理解してもらうためには、あれやこれやの理屈や言説ではなく、リアルに実感し体験してもらうのが一番だ。最初に行われたとき、よほど衝撃的な効果を達成したのであろう。祭礼は、現代に至るまで1000年以上も継承されてきたのである。
この法会を企画し実現させた源信たちは、かなりの知恵者といえる。
當麻寺のある葛城は、源信の生まれ故郷。母親は知的で信心深い人柄のようで、源信も深く敬愛していた。源信は、母への愛惜の思いを中将姫への敬慕に重ねて供養しようとしていたのではないかとも思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/源信_(僧侶)
■追記
練供養会式の参加者、中将姫を迎える観音菩薩を演じる人のインタビューをみつけたので紹介しておきたい。
http://www.dydo-matsuri.com/list/shoujurai/

2014年4月21日月曜日

花は桜、桜は吉野。上千本から奥千本へ、吉野山を歩く。

4月19日、吉野へ花見にでかけた。 朝日新聞の夕刊に、奥千本の桜は週末に満開との写真付き記事。京阪神の桜名所は数多いが、吉野は別格。夫婦で桜見物に遠出した。
吉野駅前から、中千本公園へ向かうバスに乗る。バスを降りて、坂道を奥千本行きのバス乗り場に向かう。
バス待ちの長い列が続き、1時間以上待ち時間がある状況。
上千本から奥千本へ向かう、ハイキングコースを歩くことにする。

<上千本・吉野水分神社、内庭の桜が桧皮葺きの屋根に映えて美しい>
上千本から奥千本へ向かうハイキングコースは、かなり急な坂道が続く。花矢倉付近からは、金峯山寺を眼下に見晴らすことができる。手前や向いの山の桜を眺めながら、夫婦ふたり息を切らせながら坂道を上る。
吉野水分神社の赤い鳥居が見えてくる。社殿は、1605年に豊臣秀頼によって建造されたと伝えられる。子授けの神として信仰されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉野水分神社 
社殿によって囲われた内庭には、桜が満開。古びた神社の桧皮葺き屋根に桜の白やうす紅色の花が映えて美しい。子授け祈願であろうか。神輿が左右に2基据えられた社殿からは、神主さんの祝詞が聞こえてくる。ひなびた風情の渋い神社である。
上千本 吉野水分神社
吉野水分神社
上千本 吉野水分神社 内庭の桜
内庭の桜
<上千本から奥千本へ向かう急な山道、途中の高城山は展望公園>
吉野水分神社でひと休みして、奥千本へ向かう。急な上りの坂道が続く。高城山の頂上は展望公園になっており、屋根付きの休憩所も設けられている。桜は、こちらも満開。
吉野山 高城山展望公園の桜
高城山展望公園へ上る坂道
吉野山 高城山から金峯神社へ向かう小径
高城山から金峯神社へ向かう小径
高城山の展望公園から金峯神社へ向かう道は、下り坂。道幅は約1mと狭いが、石垣や路面が整備されており気持のいい小径である。
小径を降りると車道にでる。車と人の行き交う道をしばらく歩くと、金峯神社の鳥居が見えてくる。 

<奥千本・金峯神社。境内は修験道の聖地、大峯奥駈け道の一部>

金峯神社の鳥居から社殿へ向かう経路は、急な坂道。本殿の周りは見事な桜の大木が茂っており、満開。 社殿の付近からの見晴らしもいい。
奥千本 金峯神社
金峯神社の参道
奥千本 金峯神社境内の桜
金峯神社境内の桜
吉野・大峯と和歌山県南部の熊野三山を結ぶ道は、大峯奥駈け道と呼ばれ、修験道の聖地。金峯神社の境内は大峯奥駈け道の一部である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/金峯神社_(吉野町) 

<道幅1m足らずの狭い急な山の坂道を下って、奥吉野の名所・西行庵へ>
金峯神社の休憩所から、西行庵へ向かう。天気は晴れ。雨は降っていないのに、なぜか路面は水気を含んで滑りやすくなっている。
西行庵の案内標識を見て、杉木立に囲われた道をしばらく歩く。展望が一気に開け、正面に満開の桜が見えてくる。
山の斜面を縫って続く小径は、ふたり行き交うのが無理な道幅。順路に沿って一方通行、花見客はひとりずつ一列に並んで歩いて行く。
前を歩いている子供が「地獄道や〜」と面白がってはしゃいでいる。
60度以上はあろうかと思われる、急な左下がりの山肌に沿って小径が作られている。堅固な手すりが右側に設置されているが、左の下り斜面側は開けっぴろげ。手すりを持ち、転落しないよう注意して歩く
奥千本 西行庵へ降りる坂道と四方正面堂跡へ向かう坂道
西行庵へ向かう急な下り坂(上)と四方正面堂跡へ行く山道(下)を一列になって歩くひとびと
急な坂道を降りて、西行庵のある広場に出る。イメージとして復元された庵には、平安〜鎌倉時代の歌人・西行の小さな像が据えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/西行
山肌に沿って咲く桜は、満開。奥吉野ならではの見事な風景である。
奥千本 西行庵
西行庵
奥千本 西行庵付近の桜
西行庵付近の桜
 <四方正面堂跡側の山は桜植樹中。十数年後には見事な桜が楽しめそう>
西行庵から向いの山を望むと、正面の小高い丘に桜の大木が数本茂っている。明治時代の廃仏毀釈で廃寺になった安禅寺の四方正面堂跡である。
奥千本 四方正面堂跡の桜
四方正面堂跡の桜
奥千本 西行庵へ向かう急な下り坂
西行庵への急な下り坂
こちら側の山の斜面は杉木立が伐採されて、現在、桜の苗木を植樹中。十数年もたてば、谷を挟んで右と左に桜が咲き、奥千本の名所になるかも知れない。
西行庵の広場で花見をしながら柿の葉寿司の遅い昼食を楽しんだ後、水場の設けられた苔清水を通って四方正面堂跡へ。高台の桜の下で見晴らしを楽しむ。
帰りは金峯神社の鳥居前からバスで竹林院前へ。下車してさらに中千本公園からバスに乗り継ぎ吉野駅へ向かう。
吉野駅へ到着したのが朝11時前。上千本から奥千本への桜見物を終えて、再び駅へ帰ったのが午後4時前。バスに乗り降り、山道を上り下りしながらハイキングを楽しんだ吉野の花見である。
◎吉野山 上千本&奥千本の写真アルバム
https://picasaweb.google.com/100688261626365550186/_03?authuser=0

■中千本〜奥千本のハイキングルート 案内図
吉野山 中千本から奥千本へのハイキングルート 案内図

■上千本〜奥千本ハイキング行程と時間(参考)

◎吉野駅着10:50→○吉野駅前からバス約20分乗車、中千本公園バス停着11:15→○竹林院前、奥千本行きバス停着11:20
◎竹林院前から上千本・奥千本へ向かうハイキングを開始11:25→○花矢倉着11:40→○水分神社着12:00→○水分神社発12:20→○高城山展望公園着12:30→○金峯神社着12:50→○金峯神社発13:00→○西行庵着13:25→○西行庵発13:40→○四方正面堂跡着13:45→○四方正面堂跡発14:00→○金峯神社着14:15→○奥千本口バス停(金峯神社鳥居前)着14:25※竹林院前行きバスを時間待ち。
◎奥千本口からバス約20分乗車、竹林院前バス停15:10着→○中千本公園バス停15:15着※吉野駅前行きバスを時間待ち。
◎中千本公園からバス約20分乗車、吉野駅前15:50着


2014年1月19日日曜日

新年のちょっといい話。「もうひとつの花園」全国高校ラグビーU-18東西対抗戦の開催趣旨。

新年1月7日、全国高校ラグビー決勝戦を見学にでかけた。花園ラグビー場で行われた、東海大仰星高校vs桐蔭学園の試合である。

開始早々、東海大仰星高校が相手パスをインターセプトしてトライ。以降も、双方めまぐるしい攻防をくりひろげる激戦を制して、地元大阪の東海大仰星高校が優勝した。
キックはあまり多用せずパス&ランを基本にしたつなぐラグビー。両校共に足の速い選手が多く、パスを次々とつないで駆け抜ける。必死にタックルして阻止し攻守が入れ替わる、スピーディな試合展開。決勝戦にふさわしい好試合を観戦できた。
全国高校ラグビー U-18東西対抗戦
全国高校ラグビー U-18東西対抗戦
本題の新年のちょっといい話は、この決勝戦ではなく、決勝戦の前に行われた東西対抗戦である。
ウチに帰ってネットで調べてみたら、東西対抗戦の意外な開催趣旨を知ることができた。
<「もうひとつの花園」その効果と高校ラグビーを取り巻く現状>と題する斉藤健仁さんのレポートによれば、U-18東西対抗戦は、少人数校の高校生ラガーメンに花園ラグビー場で試合をする機会を与えようという趣旨で開催される。
東西対抗戦の選手は、全国高校ラグビーに出場した高校チームの生徒から選抜されたとばかり思っていたが、勘違いである。
事実は逆で、単独チームとしては花園の全国高校ラグビーに出場機会のなかった高校生から選抜した選手たちであった。
花園ラグビー場は、ラグビーの「聖地」とされる場所。高校野球で言えば、甲子園球場に相当する存在である。
チーム人数が足りず単独チームとしては公式戦に出場できない高校生ラガーにとって、「花園」でプレーできることがどんなにうれしく励みになることか。
One for All, All for Oneというラグビーの基本精神が示された、ちょっとウレシイいい話である。
「もうひとつの花園」U-18東西対抗戦。この試合を企画立案し、実現させたラガーと運営を支えるひとびとに拍手。そして何よりも、花園でプレーできる夢を励みにして黙々と練習に取り組む高校生ラガーたちに、こころからの声援を贈りたい。

■「もうひとつの花園」その効果と高校ラグビーを取り巻く現状(斉藤健仁)
https://www.jsports.co.jp/press/article/N2014010900435203.html
■全国高校ラグビー 東西対抗
http://mainichi.jp/search/index.html?q=全国高校ラグビー%20東西対抗%20&r=reflink